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沖縄の世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」について

世界遺産沖縄の「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(平成12年記載)について

小さな島国だった琉球は、14世紀後半から18世紀末の間、中国、韓国、東南アジアと日本との仲介貿易で大きな役割を演じ、その特徴を表す文化遺産群として、「グスク」と呼ばれる城塞建築が集中する沖縄本島中部を中心に、国頭から島尻にかけて9つ(今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)の遺産が登録されました。重要文化財2棟、史跡7、内特別名勝1つが含まれています。

琉球王国のグスク及び関連遺産群

登録基準(2)(3)(6)
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

  「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産

資産名所 所在地
説 明
今帰仁城(なきじんじょう)跡 今帰仁(なきじん)村

1429年までおよそ100年続いた三山鼎立時の北山王統の居城でした。三山は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配したため三山鼎立の時代と言われています。1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志によって滅ぼされました。落城後は、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁グスクに設置し、1422年以後監守の居城として利用されました。

 

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座喜味城跡(ざきみじょう) 読谷村(よみたんそん)

中山軍の今帰仁城攻略に参加した護佐丸によって15世紀前期に築かれたグスクです。護佐丸は当初、座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していましたが、1416年(1422年の説もある)中山の尚巴志の今帰仁城攻略に参戦し、その直後、首里城より眺望可能な丘陵上に築城したといわれています。北山が滅びた後も沖縄本島西海岸一帯に残存していた旧北山勢力を監視するという役目を担っていました。

 

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中城城跡(なかぐすくじょう) 中城村、北中城村

勝連城主である阿麻和利を牽制するために、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が、勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築し、完成させた城(グスク)です。護佐丸滅亡後、中城城は王府の直轄地となり、琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たしました。

 

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勝連城(かつれんじょう)跡 うるま市

海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利が居城したとして有名な勝連城の築城は13~14世紀頃、眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されています。城主の阿麻和利は、1458年に中城城の護佐丸を滅ぼした後、反旗を翻し、国王の居城である首里城を攻めますが、逆に滅ぼされてしまいました。

 

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首里城跡 那覇市

尚・巴志王が北山・中山・南山の三山を統一し琉球王朝が成立した後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たしました。首里城が造られた年代は明らかではありませんが、これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半のものであることが判明しています。 
首里城は沖縄戦を含め4度焼失しています。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなっていましたが、大学移転後、1715年から1945年までの姿を基に復元事業が推進され2019年1月に完成。しかし2011年10月31日に5度目の焼失となりました。
ただ、世界遺産に登録されているのは首里城跡となっています。つまり、本殿の下の「遺構」、石積みの部分に世界遺産の価値が認められているのであって、地上の建物の焼失をもって世界遺産としての価値を失ったことにはなりません。

 

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玉陵(たまうどぅん) 那覇市

国王が祖先崇拝信仰を国内統治に利用するために、1501年頃尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となったと言われています。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となり、東室には洗骨後の王と王妃を安置、西室は王族など限られた家族が葬られました。

 

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識名園(しきなえん) 那覇市

琉球王家最大の別邸の庭園として、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。1799年につくられ、王族の保養の場としてだけなく、中国皇帝の使者である冊封使を饗応する場所としても利用されるなど、国の外交面において重要な役割を果たしました。第二次世界大戦で大きな被害を受けましたが、遺構調査に基づき復元整備されました。

 

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園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん) 那覇市

1519年に創建された日本、中国の両様式を取り入れた琉球独特の石造の門で、出入り口として人が通る門ではなく、王家の拝所として使用されました。木の扉以外は琉球石灰岩で作られています。この石門も第二次世界対大戦で破壊されましたが、復旧作業により再建されたものです。

 

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斎場御嶽 知念村

「御嶽」とは琉球の信仰における祭祀などを行う施設で「斎場御嶽」は、王国最高の御嶽とされ、中央集権的な王権を信仰面、精神面から支える国家的な祭祀の場として重要な役割を果たしました。 御嶽の創設年は定かではありませんが、15世紀前半には国王がこの御嶽に巡幸していたようです。 戦前までは、男子禁制であった聖地ですが、現在では多くの人が参拝に訪れています。

 

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琉球は、1429年に最初の王が誕生してから、1879年明治政府によって沖縄県が設置されるまで琉球諸島を中心に栄えた王国でした。その特色を如実に反映している文化遺産が城(グスク)です。