首里城
琉球王国の政治、外交、文化の中心地として威容を誇った首里城は、1945年の沖縄戦で灰燼に帰し、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して国営公園として復元されました。 また、中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的・歴史的な価値があるとされ、首里城跡は2000年12月に、日本で11番目の世界遺産として登録されました。世界遺産に登録されているのは首里城跡となっており、本殿の下の「遺構」、石積みの部分に世界遺産の価値が認められているのであって、地上の建物は世界遺産には含まれていません。

鮮やかな朱色に彩られた姿は、王国の歴史や文化を伝え、沖縄のシンボルといえるでしょう。

首里城の火災
首里城が造られた年代は明らかではありませんが、これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半のものであると判明しています。 首里城は沖縄戦や火災などで再建を繰り返し、戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなっていましたが、大学移転後、1715年から1945年までの姿を基に復元事業が推進され、1992年1月に完成しました。しかし2011年10月31日に5度目の焼失となりました。正殿と北殿、南殿が全焼したほか、合わせて7棟の建屋、延べ4,800平米が焼失、原因は解明されていません(2020年7月時点)。
首里城再建
政府は、首里城正殿の再建に関し、首里城正殿を2026年完成を目指す方針を固め、22年から再建へ向けて本格着工するとしました。
首里城火災に対する支援金
沖縄県のホームページでは修復再建に向けた支援の受付について下記ページで紹介しています。
首里城の歴史
(三山時代)、南部の南山(山南)・中部の中山・北部の北山(山北)三つの政権が、覇権を競う
尚巴志(しょうはし)が、「南山・中山・北山」の3つに分かれていた国を中山王武寧を攻め滅ぼして初めて琉球(沖縄)を統一することに成功、首里城を王家の居城として用いると同時に首里は首府(国の統治機関が置かれている都市)とする
首里城は志魯・布里の乱(王位争い)の時全焼し、3年後には再建されたようです。(一度目の焼失)
慶長の役で薩摩藩(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)が3000人の軍勢をもって琉球王国に侵攻し首里城を占拠
第10代尚質(しようしつ)王の時代、失火により焼失(二度目の焼失)
※再建には11年もの歳月を要したと言われています。
火災が原因で、正殿・ 北殿・南殿などが焼失(三度目の焼失)
浦賀を訪れる前のペリーが一足先に来航し、首里城を訪問
琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰 (しょうたい) が藩主となる。中国(清)も、琉球王国に対する宗主権を主張。
1879年
明治維新によって成立した日本政府により、琉球王国の最期の王である尚泰(しょうたい)が追放され琉球王国は滅亡、沖縄県が誕生
沖縄県駐屯の「熊本鎮台沖縄分遣隊」の兵舎として使用される
1897年~1945年
首里市立女子工芸学校・沖縄県立工業徒弟学校・首里第一尋常小学校などの校舎として利用される
1925年
首里城の正殿が国宝に指定、昭和の大改修が行われた
1945年
太平洋戦争の際には、日本軍の駐屯地・各種の学校等として使用されていたが、アメリカ軍の攻撃を受けて全焼(1945年5月25日から3日間、アメリカ軍艦ミシシッピ等から砲撃を受け続け、27日に焼失したと言われています)(四度目の焼失)
※戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとして使用されましたが、大学が移転され、首里城の復元事業がすすめられた
守礼門が再建されたのを皮切りに周辺の建築から再建が始まる。
1972年
1979年
1992年
正殿を中心とした建築物群やそこへ至るまでの門の数々と城郭が再建され、『首里城』は復元
2000年
『首里城跡』として、他のグスク(沖縄の城)などと『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の名称で世界遺産に登録される。
2019年
火災により焼失(五度目の焼失)
首里城公園
- 開園・開場時間(対象区域: 歓会門、木曳門、久慶門)
- 4月~6月:8:00~19:30
- 7月~9月:8:00~20:30
- 10月~11月:8:00~19:30
- 12月~3月:8:00~18:30
- 休場日
- 首里城公園施設の一部休場日: 7月の第1水曜日とその翌日
- 休場対象施設:首里杜館(レストラン、売店、地下駐車場を含む)
- お問合せ先
- 首里城公園管理センター
- TEL:098-886-2020 FAX:098-886-2022