ヘリテージ~受け継ぐべきもの

将来に遺したい日本の宝について

世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつ玉陵

玉陵(たまうどぅんについて

玉陵は第二尚氏の一族を葬った墓です。1501年頃、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となったと言われています。国王が祖先崇拝信仰を国内統治に利用するために、墓を造ったと推測されています。

墓の構造

全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓は首里城をモデルにしたといわれ、前面にレリーフが施された高欄がめぐり、墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となり、創建当初の東室には洗骨後の王と王妃を安置、西室は王族など限られた家族が葬られていました。 墓庭は、ほぼ中央部で東西に二分され、清めのためのサンゴ片が敷かれています。16世紀初頭の琉球地方において確立された独自の石造建物の意匠を示す貴重な事例です。沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。

1972年5月に玉陵墓室石牆(たまうどぅんぼしつせきしょう)が国指定有形文化財建造物に、玉陵は国指定記念物史跡に指定、2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。2018年12月には、玉陵が建造物として正式に国宝に指定、沖縄県内で建造物の国宝指定は初となります。

施設情報

【住所】〒903-0815沖縄県那覇市首里金城町1-3

【電話番号(問い合わせ)】098-885-2861

【営業時間】9時~18時

【定休日】無休

【利用料金】大人 300円、小人 150円

※小学校就学前は無料(保護者同伴に限る)

奉円館(ほうえんかん

世界遺産 玉陵の歴史をはじめ、玉陵の内部の様子などの説明があります。玉陵見学前にチェックすると良いようです。

玉陵のシーサー

墓室の屋根には3体の直立シーサーが立っています。すべて入口門の方向を見て守り神の役目を果たしています。直立のシーサーは沖縄でも珍しいそうです。

琉球王国の象徴「首里城」

首里城

琉球王国の政治、外交、文化の中心地として威容を誇った首里城は、1945年の沖縄戦で灰燼に帰し、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して国営公園として復元されました。 また、中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的・歴史的な価値があるとされ、首里城跡は2000年12月に、日本で11番目の世界遺産として登録されました。世界遺産に登録されているのは首里城跡となっており、本殿の下の「遺構」、石積みの部分に世界遺産の価値が認められているのであって、地上の建物は世界遺産には含まれていません。

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鮮やかな朱色に彩られた姿は、王国の歴史や文化を伝え、沖縄のシンボルといえるでしょう。

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首里城の火災

首里城が造られた年代は明らかではありませんが、これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半のものであると判明しています。 首里城は沖縄戦や火災などで再建を繰り返し、戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなっていましたが、大学移転後、1715年から1945年までの姿を基に復元事業が推進され、1992年1月に完成しました。しかし2011年10月31日に5度目の焼失となりました。正殿と北殿、南殿が全焼したほか、合わせて7棟の建屋、延べ4,800平米が焼失、原因は解明されていません(2020年7月時点)。

首里城再建

政府は、首里城正殿の再建に関し、首里城正殿を2026年完成を目指す方針を固め、22年から再建へ向けて本格着工するとしました。
首里城火災に対する支援金
沖縄県のホームページでは修復再建に向けた支援の受付について下記ページで紹介しています。

首里城の歴史

首里城が造られた年代について、これまでの発掘調査などの成果から14世紀中葉から後半のものであると判明しています。
1322年ごろから1429年
(三山時代)、南部の南山(山南)・中部の中山・北部の北山(山北)三つの政権が、覇権を競う
1429年
尚巴志(しょうはし)が、「南山・中山・北山」の3つに分かれていた国を中山王武寧を攻め滅ぼして初めて琉球(沖縄)を統一することに成功、首里城を王家の居城として用いると同時に首里は首府(国の統治機関が置かれている都市)とする
1453年
首里城は志魯・布里の乱(王位争い)の時全焼し、3年後には再建されたようです。(一度目の焼失)
1609年
慶長の役で薩摩藩(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)が3000人の軍勢をもって琉球王国に侵攻し首里城を占拠
1660年
第10代尚質(しようしつ)王の時代、失火により焼失(二度目の焼失)
※再建には11年もの歳月を要したと言われています。
1709年
火災が原因で、正殿・ 北殿・南殿などが焼失(三度目の焼失)
1853年
浦賀を訪れる前のペリーが一足先に来航し、首里城を訪問
1872年
琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰 (しょうたい) が藩主となる。中国(清)も、琉球王国に対する宗主権を主張。

1879年
明治維新によって成立した日本政府により、琉球王国の最期の王である尚泰(しょうたい)が追放され琉球王国は滅亡、沖縄県が誕生

1879年~1896年
沖縄県駐屯の「熊本鎮台沖縄分遣隊」の兵舎として使用される
1897年~1945年
首里市立女子工芸学校・沖縄県立工業徒弟学校・首里第一尋常小学校などの校舎として利用される
1925年
首里城の正殿が国宝に指定、昭和の大改修が行われた
1945年
太平洋戦争の際には、日本軍の駐屯地・各種の学校等として使用されていたが、アメリカ軍の攻撃を受けて全焼(1945年5月25日から3日間、アメリカ軍艦ミシシッピ等から砲撃を受け続け、27日に焼失したと言われています)(四度目の焼失)
※戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとして使用されましたが、大学が移転され、首里城の復元事業がすすめられた
1958年
守礼門が再建されたのを皮切りに周辺の建築から再建が始まる。
1972年
首里城跡は国の史跡に指定され、城の入り口に当たる歓会門や周囲の城郭が再建された。
1979年
琉球大学が首里城跡から移転が確実となり、首里城再建計画により本格的な復元がはじまる。
1992年
正殿を中心とした建築物群やそこへ至るまでの門の数々と城郭が再建され、『首里城』は復元
2000年
『首里城跡』として、他のグスク(沖縄の城)などと『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の名称で世界遺産に登録される。
2019年
火災により焼失(五度目の焼失)

首里城公園

園内には、守礼門や園比屋武御嶽石門、円覚寺跡などの文化財が点在しています。『首里城公園』内は大変広い敷地ですが、順路がある程度決められているため、1時間~1時間半程度の所要時間で見学することができます。また、『首里城』では、日没から24時まで、毎日城郭のライトアップを行っています。
開園・開場時間(対象区域: 歓会門、木曳門、久慶門)
4月~6月:8:00~19:30
7月~9月:8:00~20:30
10月~11月:8:00~19:30
12月~3月:8:00~18:30
休場日
首里城公園施設の一部休場日: 7月の第1水曜日とその翌日
休場対象施設:首里杜館(レストラン、売店、地下駐車場を含む)
お問合せ先
首里城公園管理センター
TEL:098-886-2020  FAX:098-886-2022
※料金については、首里城の火災により現在、有料区域については立ち入り禁止となっています。
※今回の写真はすべて「フリー写真素材フォトック」様よりダウンロードさせていただきました。

沖縄の城の中でも最も古い「勝連城(かつれんじょう)」

勝連城(かつれんじょう 跡~沖縄の世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(平成12年記載)

中城城と海を隔てて向かい合うように立つ勝連城は、海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利(あわまり)が居城したとして有名で、眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されています。城壁の石はかなり持ち去られましたが、復元工事で姿を取り戻しつつあります。

勝連城の基本情報

開園時間
午前9時~午後6時
 
年中無休
 
入園料
無料
住所
〒904-2311 沖縄県うるま市勝連南風原3908
TEL: 0989787373 FAX :098-923-2179

勝連城の見どころ

沖縄には様々な神が存在し、勝連城は、これらの神が祀られている場所である「御嶽(うたき)」が多く存在する神聖な場所です。

一の曲輪

一の曲輪の城門は、周辺から出土した石材から、捲まき髭ひげ状の浮き彫りが施されたアーチ型の門であったと考えられています。一の曲輪には貴重品を保管する倉庫があったとされています。

玉ノミウジ御嶽

一の曲輪にあり、按司の守り神を祀った拝所で、大きな岩は勝連を守る霊石です。ここでは、村の繁栄が祈願されていました。

殿舎跡

首里城正殿のような柱の多い構造で、礎石のあるしっかりとした造りであったことが分かっています。勝連城の城郭内で、最も重要な建物であったと考えられています。

二の曲輪

城の中で最も重要で、今でいう役所のような役割をしていたようです。東西14.5m、南北17m規模の舎殿跡があり、覆土によって遺構を保存しています。

ウシヌジガマ 

二の曲輪にある洞穴で、ガマとは洞穴の事。天災や戦争のとき、ここに身を潜めて難を逃れていたようです。調査の結果このガマは外部への通り抜けはできず単なる洞穴と判りました。

ウミチムン(火の神)

二の曲輪にあり、城の台所であったと考えられています。

3の曲輪 城門

儀式などを執り行う広場として使われていました。二の曲輪の前庭部になっています。

肝高の御嶽 

三の曲輪にあり、城内へ登城するときの控場所でした。王国時代から続く「ウマチー」という年中行事の拝所です。

すり鉢状遺構

三の曲輪中央部で発見されました。「飲み水を溜めていた」とする説や、「儀式に使われていた」とする説など様々あり、未だ解明されていません。

マチダ・ナケージガー 

王国時代より神々と繋がる泉(カー)として、祈りの場であると考えられています。

ミートゥガー(井戸)

かつてこの泉が、男女の逢瀬の場であったという伝説から「縁結びの井戸」とされています。

ウタミシガー(井戸) 

旧正月の元旦に水量を見て、その年の作物の出来を占っていた井戸だと言われています。少ないと豊作でおおいと凶作だそうです。

南風原御門 

本来の正門とされています。

まとめ

勝連城は、約100mの丘陵上に建ち、最上部の曲輪からは太平洋が一望できます。見る角度によってはヨーロッパのお城のようにも見えると言います。沖縄で最も古いとされる勝連城。はるか昔を思いながらこの地を歩いてみたいと思いました。

最も多くの遺構が当時の姿で残る「中城城」

中城城(なかぐすくじょう跡~沖縄の世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(平成12年記載)

中城城の築城は不明ですが、14世紀後半に先中城按司が数世代にわたって築いたとされています。1440年ごろ、勝連城主である阿麻和利を牽制するために、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が、勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築しました。護佐丸滅亡後、中城城は王府の直轄地となり、琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たしました。

中城城跡基本情報

事務局住所
〒901-2314 沖縄県中頭郡北中城村字大城503
電話: 098-935-5719 Fax: 098-935-1146
休園日
年中無休となっております。
(ただし中城城跡の観覧につきましては、お客様の安全確保等の為、気象状況や城跡内の整備、 各種イベント等により、観覧を制限する場合もあります。)
閲覧時間
8:30~17:00
5月~9月の間は18:00まで
料金
大人400円 (団体300円)
中/高校生300円 (団体200円)
小学生200円 (団体100円)
※団体扱いは20名以上が対象。保護者同伴の小学校就学前の方は無料

石垣の他、抜群の立地条件もここの特徴で、太平洋が一望でき二の郭から見る海と空のコントラストは最高。また、精工に積み上げられた石垣には、ペリーも感嘆したと言われるほどです。

中城城の史跡(見どころ)

入城受付は、中城城の東端の裏門口になります。

馬場~三の郭

見晴らしの良い広々とした馬場から中城城跡の裏門と三の郭の城壁が見られます。

裏門
北東に向かって建てられた裏門で、ペリー探検隊一行がエジプト式と評した精巧なアーチ門がひときわ美しい。
北の郭
護佐丸が井戸を取り込み増築したとされる北の郭。井戸を取り込む事により、長期の籠城にも耐えられるようにしたとされます。
大井戸(ウフガー)
長い階段を下った先にあるのが、北の郭にある大井戸。また、西の郭には「夫婦井戸(ミートゥガー)」と呼ばれる2つの井戸があり、城郭内に水を確保していることが、この城の特徴です。
三の郭

後に増築されたため「新城(ミーグスク)」とも呼ばれ、石積み技法の最も進んだ相方積み(亀甲乱積み)によって築かれています。

二の郭
二の郭の曲線の美しさはひと際美しく、中城城最高の絶景ポイントとなっているようです。
一の郭
中城城で最も広い一の郭で、正殿があったようです。後に間切番所が建てられ、廃藩置県後は中城村役場に使用されていましたが、太平洋戦争で焼失しました。
石垣には観月台と呼ばれる展望台があり、中城湾が見渡せます。城壁の石垣は曲線を描き、芸術的な積み方となっています。
南の郭

首里遙拝所がある施設で木々が茂っています。
他にも神の島・久高島を拝む久高遙拝所など場内には8つの拝所があります。

正門

南西に向けられて建てられた正門(やぐら門)で、見学コースの一番最後にあります。門を挟むように両側に石垣がせり出し、正門の近くには城壁の一部を取り除いた部分があります。

中城城の魅力

県内に300余りあるといわれている沖縄のグスクの中で、最も多くの遺構がオリジナルのまま残されているのが一番の魅力。また、ペリーが絶賛したという美しい石積みのアーチ門など、景色も含めたすべてが訪れる人を魅了していることがわかります。

座喜味城跡

座喜味城(ざきみじょう跡~沖縄の世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(平成12年記載)

沖縄県中部地区西海岸にある読谷村(よみたんそん)のドライブコースとなっているようです。

【住所】
沖縄県中頭郡読谷村字座喜味708-6番地
【連絡先】
読谷村役場 文化振興課:098-958-3141

座喜味城について

座喜味城は、1416年~1422年に護佐丸が北山監守として今帰仁城にいた時期に築造させた城で、護佐丸は後に座喜味城に移りここで過ごしました。一の郭と二の郭の2つの曲輪から成るシンプルな構造で、規模はさほど大きくはありませんが、座喜味城のアーチ門棟石の中央には楔が打ち込んであり、沖縄に現存するもっとも古いアーチ門といわれています。

座喜味城跡の見どころ

 城壁から見渡すオーシャンビュー

座喜味城は、城壁に登ることができる唯一の城で、高台に立つと、城壁からは東シナ海が一望できます。

石造アーチ門

沖縄で最古と言われるこのアーチ門は、独特の曲線美が見ものです。

世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアム

1F展示室:世界遺産・座喜味城跡や読谷で育まれた自然・文化遺産の展示

2F展示室:考古・民俗・自然・沖縄戦について展示

開館時間

午前9時~午後6時(入館は午後5時30分まで)

休館日

水曜日、年末年始 (12月28日~翌年の1月4日)

展示替え及び燻蒸などの臨時休館日

祝祭日が水曜日に重なったときには翌日が休館

利用料金

村内

個人:小中学生以下 無料/高校生以上 200円/65歳以上 160円

団体(20名以上):小中学生以下 無料/高校生以上 160円/65歳以上 160円

村外

個人:幼児 無料/小中学生以下 300円/高校生以上 500円/65歳以上 400円

団体(20名以上):幼児 無料/小中学生以下 240円/高校生以上 400円/65歳以上 400円

※身障者手帳・療育手帳・精神障害者福祉手帳をご提示頂いたお客様、及び介助者1名は 無料となります。

座喜味城跡のガイダンスの他、読谷村の歴史や美術工芸の展示が充実しています。

読谷村

日本の村としては最も人口が多く、特産品は紅イモ、その他にも伝統工芸品として「読谷山花織(ゆんたんざはなうい)」という織物や「読谷山焼(ゆんたんじゃやき)」という焼き物(やちむん)もあります。東シナ海を一望できる絶景ビーチ「渡具知ビーチ(渡具知の浜)」や「残波岬」など見どころもたくさん。隆起したサンゴの断崖が約2㎞続き、先端の残波岬灯台からは紺碧の海が一望できます。

 

県内最大級のグスク「今帰仁城跡」

今帰仁城(なきじんじょう跡(琉球王国のグスク及び関連遺産群)

沖縄本島の北部、本部半島にあり、那覇市から車で約1時間30分の距離です。

今帰仁城跡管理事務所
〒905-0428
沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊5101番地
TEL・FAX:0980-56-4400

基本情報

時間:今帰仁城跡と歴史文化センターの共通券
通常期間(1~4、9~12月):午前8時~午後6時(最終入場午後5時30分)
夏期延長期間(5~8月):午前8時~午後7時(最終入場午後6時30分)
年中無休 ※但し、予告無く館内燻蒸、施設管理等により、一部施設を閉館する場合もあります。
駐車場
無料(約320台収容)
観覧料( 団体は10名以上)
大人 個人 400円・団体320円/小中高生個人 300円・団体240円/小学生未満:無料
※観覧料は今帰仁城跡と歴史文化センターの共通券です

今帰仁城跡チェックポイント

今帰仁城は14世紀に琉球王国が、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の3つの地域に分かれて勢力争いをしていた三山時代(さんざんじだい)の北山王の居城だったので、北山城とも呼ばれています。直線的な日本の城壁とは異なり、中国の影響を受けていると考えられています。県内最大級の城(グスク)です。

長く低い「城壁」

城壁は全長1.5キロあり、複雑に曲がりくねっています。

平郎門

平郎門は今帰仁グスクの入り口になっていて、昔の本門です。現在見る門は昭和37年の琉球政府時代に修復されました。ここを入るとまっすぐの道がありますが、右に折れると旧道があります。

大隅(ウーシミ

平郎門を入ると、すぐ左手に大隅の入り口があります。戦いに備えて馬を養い、訓練した場所と思われます。

カーザフ(水のある谷)

平郎門を抜け、階段を登ると右手に、自然の険しい谷間が見えます。カーは「川や湧泉」、ザフは「迫(谷間)」を意味します。かつては水が湧いていたのかもしれません。

旧道

平郎門から入って右手には大きな岩盤の谷間を利用し、幅は狭く急なのぼり道となっています。これは、万一敵兵が入り込んでも、一気攻め込んでくるのを防ぐため工夫された造りとなっています。

大庭(ウーミャ)

平郎門をまっすぐ行くと階段があり、階段を登り切ると、大庭(ウーミャ)に出ます。大庭(ウーミャ)は、行事や祭祀を行う広場でした。大庭に入ってすぐ左に、詠み人知らずの琉歌が刻まれた歌碑があります。

御内原(ウーチバル)

今帰仁城跡に仕えた女官の生活の場所と伝えられ、城内でも神聖な場所とされています。ここは絶景スポットとして有名で、北側から海を一望することができます。

主郭

日本の城郭の本丸にあたる部分で、城内で最も中心的な建物があった場所です。

志慶真門郭(しげまじょうかく)

主郭から見下ろす位置にあり、発掘調査によって4つの建物があったことが分かっています。

今帰仁城跡のカンヒザクラ

今帰仁城跡は日本一早く咲く「桜の名所」として知られ、毎年1月~2月には桜祭りが行われています。桜は昭和40年代に今泊区民によって植樹されました。

歴史文化センター

今帰仁城跡(なきじんじょうあと)に隣接した施設で、今帰仁城跡をはじめ今帰仁村の歴史と文化を紹介しています。

3F 第1展示室
今帰仁の歴史
2F 第2展示室
今帰仁のムラ・シマ
2F 第3展示室
今帰仁の生活と文化
1F 第4展示室
今帰仁の遺跡

今帰仁村について

私が今帰仁という地名を知ったのは「今帰仁スイカ」からでした。何と読むのかわからなく、調べてみると地名だとわかりました。季節外れのスイカに魅せられて調べた地名でしたが、それ以来忘れられない地名となりました。村の公式サイトを見てみると「今帰仁村の名産」にスイカ・マンゴー・今帰仁アグー(養豚)・エノキタケ・モズクどれも私の好物ばかり。そして「今帰仁ブランド」を見てみると、これまた美味しそうなものばかり。美味しい沖縄料理を味わえるお店もたくさんあるらしい。行ってみたい、食べてみたい。今帰仁を調べたあの日以来、今帰仁村は私の中で美味しいものを食べることのできる場所となっているのです。ちなみに今帰仁スイカはとてもおいしかった。

沖縄の世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」について

世界遺産沖縄の「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(平成12年記載)について

小さな島国だった琉球は、14世紀後半から18世紀末の間、中国、韓国、東南アジアと日本との仲介貿易で大きな役割を演じ、その特徴を表す文化遺産群として、「グスク」と呼ばれる城塞建築が集中する沖縄本島中部を中心に、国頭から島尻にかけて9つ(今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)の遺産が登録されました。重要文化財2棟、史跡7、内特別名勝1つが含まれています。

琉球王国のグスク及び関連遺産群

登録基準(2)(3)(6)
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

  「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産

資産名所 所在地
説 明
今帰仁城(なきじんじょう)跡 今帰仁(なきじん)村
1429年までおよそ100年続いた三山鼎立時の北山王統の居城でした。三山は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配したため三山鼎立の時代と言われています。1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志によって滅ぼされました。落城後は、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁グスクに設置し、1422年以後監守の居城として利用されました。
座喜味城跡(ざきみじょう) 読谷村(よみたんそん)
中山軍の今帰仁城攻略に参加した護佐丸によって15世紀前期に築かれたグスクです。護佐丸は当初、座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していましたが、1416年(1422年の説もある)中山の尚巴志の今帰仁城攻略に参戦し、その直後、首里城より眺望可能な丘陵上に築城したといわれています。北山が滅びた後も沖縄本島西海岸一帯に残存していた旧北山勢力を監視するという役目を担っていました。
中城城跡(なかぐすくじょう) 中城村、北中城村
勝連城主である阿麻和利を牽制するために、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が、勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築し、完成させた城(グスク)です。護佐丸滅亡後、中城城は王府の直轄地となり、琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たしました。
勝連城(かつれんじょう)跡 うるま市
海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利が居城したとして有名な勝連城の築城は13~14世紀頃、眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されています。城主の阿麻和利は、1458年に中城城の護佐丸を滅ぼした後、反旗を翻し、国王の居城である首里城を攻めますが、逆に滅ぼされてしまいました。
首里城跡 那覇市
尚・巴志王が北山・中山・南山の三山を統一し琉球王朝が成立した後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たしました。首里城が造られた年代は明らかではありませんが、これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半のものであることが判明しています。 
首里城は沖縄戦を含め4度焼失しています。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなっていましたが、大学移転後、1715年から1945年までの姿を基に復元事業が推進され2019年1月に完成。しかし2011年10月31日に5度目の焼失となりました。
ただ、世界遺産に登録されているのは首里城跡となっています。つまり、本殿の下の「遺構」、石積みの部分に世界遺産の価値が認められているのであって、地上の建物の焼失をもって世界遺産としての価値を失ったことにはなりません。
玉陵(たまうどぅん) 那覇市
国王が祖先崇拝信仰を国内統治に利用するために、1501年頃尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となったと言われています。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となり、東室には洗骨後の王と王妃を安置、西室は王族など限られた家族が葬られました。
識名園(しきなえん) 那覇市
琉球王家最大の別邸の庭園として、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。1799年につくられ、王族の保養の場としてだけなく、中国皇帝の使者である冊封使を饗応する場所としても利用されるなど、国の外交面において重要な役割を果たしました。第二次世界大戦で大きな被害を受けましたが、遺構調査に基づき復元整備されました。
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん) 那覇市
1519年に創建された日本、中国の両様式を取り入れた琉球独特の石造の門で、出入り口として人が通る門ではなく、王家の拝所として使用されました。木の扉以外は琉球石灰岩で作られています。この石門も第二次世界対大戦で破壊されましたが、復旧作業により再建されたものです。
斎場御嶽 知念村
「御嶽」とは琉球の信仰における祭祀などを行う施設で「斎場御嶽」は、王国最高の御嶽とされ、中央集権的な王権を信仰面、精神面から支える国家的な祭祀の場として重要な役割を果たしました。 御嶽の創設年は定かではありませんが、15世紀前半には国王がこの御嶽に巡幸していたようです。 戦前までは、男子禁制であった聖地ですが、現在では多くの人が参拝に訪れています。


琉球は、1429年に最初の王が誕生してから、1879年明治政府によって沖縄県が設置されるまで琉球諸島を中心に栄えた王国でした。その特色を如実に反映している文化遺産が城(グスク)です。