ヘリテージ~受け継ぐべきもの

将来に遺したい日本の宝について

日本有数の桜の名所で世界遺産にもなっている「吉野山」

「吉野山」は、吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称であり、金峯山寺を中心とした神社や修験道の寺院、宿坊、商店などが立ち並ぶ地域でもあり、その全域が世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録資産となっています。周囲には桜の林が広範囲に分布しています。これは、霊木である桜を献木するという宗教行為によって植え続けられてきたもので、古くから日本一の桜の名所として知られ、吉野山の谷から尾根を埋める桜はおよそ3万本。麓から下千本、中千本、上千本、奥千本と順に開花し、下の千本は吉野山でも最も古くから有名な桜の群落です。

吉野山の寺社仏閣・史跡スポット

山全体が世界遺産になっている吉野山には、修験道の寺をはじめ、歴史ある神社仏閣が数多く残っています。

金峯山寺(きんぷせんじ)

金峯山修験本宗の総本山で、修験道の祖・役行者が開いたと伝えられています。

金峯山寺は世界遺産の登録資産となっています。

金峯山寺の国宝「蔵王堂」と国宝「仁王門」重要文化財「金峯山寺銅鳥居」が世界遺産の登録資産となっています。

蔵王堂(国宝・世界遺産)

金峯山寺の本堂。創建以来、焼失と再建を重ね、現在のお堂は1592年ごろに完成した、高さ34m、四方36mの、木造古建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇っています。

仁王門(国宝・世界遺産)

金峯山寺蔵王堂の北側の正門にあたる仁王門は、大阪や京都から逆峯入りする信者を迎えるため、北を向いています。三間一戸、人母屋造り、本瓦葺の楼門で、高さは20.3mあります。現在の建物の下層は南北朝期、上層は康正年間の建造と推定されており、金峯山寺に残る諸堂の中で最も古い建造物です。

金峯山寺銅鳥居(重要文化財・世界遺産)

高さ約7.5mの銅製の大鳥居で、吉野山から山上ヶ岳(大峯山)まで発心・修行・等覚・妙覚の4門あるうちの最初の門で、正しくは発心門といいます。

金峯山寺の拝観について

住所
〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山

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問合せ
TEL:0746-32-8371
拝観時間
本堂蔵王堂 8:30~16:00
塔頭脳天大神龍王院 8:30~16:00
拝観料金()は団体料金
境内無料
【蔵王堂拝観料】
大人    800円(720円)/中高生    600円 (540円)/小学生    400円(360円)
※秘仏御本尊特別開帳時は別途料金かかります
駐車場
なし
最寄りの駅等
ロープウェイ吉野山駅

吉水神社(よしみずじんじゃ)

かつては吉水院(きっすいいん)といい、修験宋の僧房の一つでしたが明治時代の神仏分離令で吉水神社と改められました。

吉水神社は世界遺産の登録資産となっています。

吉水神社の重要文化財「吉水神社書院」が世界遺産の登録資産となっています。

吉水神社書院(重要文化財・世界遺産)

日本最古の書院建築として世界遺産の登録資産の一つとなっています。後醍醐天皇玉座の間や義経潜居の間、太閤秀吉花見の間などがあります。

吉水神社の拝観について

住所
〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山579

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問合せ
TEL:0746-32-3024
拝観時間
9:00~17:00(受付は16:30まで)
年中無休
拝観料金
境内無料
【書院拝観料】
大人・大学生    600円/中高生 400円/小学生 300円
※団体料金は20名以上1割引きとなります
駐車場
あり
最寄りの駅等
ロープウェイ吉野山駅

如意輪寺(にょいりんじ)

10世紀初めに真言宗のお寺として建立されました。のちに後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際に、後醍醐天皇の勅願寺と定められ、その後、江戸時代に真言宗から浄土宗へと改宗されました。

如意輪寺の拝観について

住所
〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山1024

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問合せ

TEL:0746-32-3008(受付時間 9〜16時)

拝観時間
8:30~17:00(観桜期)
9:00~16:00(その他)
※時間外の場合、要連絡
拝観料金
大人 500円 /中高生 200円/小学生 100円
※団体割引あり
駐車場
あり(乗用車約200台分)
※観桜期の大型バスの駐車は要連絡
最寄りの駅等
近鉄吉野駅より徒歩35分 / タクシー7分

吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)

分水嶺に対する信仰を祭祀の起源とする神社で、社殿は本殿・拝殿・弊殿・楼門・回廊(いずれも重要文化財)からなり、現在の社殿は秀吉の意志を継いだ秀頼によって1604年に再建されたものです。

吉野水分神社は、世界遺産の登録資産となっています。

「みくまり」が「みこもり」となまり、子授けの神として信仰されています。

吉野水分神社の拝観について

住所
〒639-3115 吉野郡吉野町吉野山1612

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問合せ

TEL:0746-32-3012

拝観時間
8:00~16:00(4月のみ8:00~17:00)
拝観料金
無料
駐車場
あり
最寄りの駅等
近鉄吉野駅より徒歩35分 / タクシー7分
バス停竹林院前から徒歩30分

金峯神社(きんぷじんじゃ)

吉野山の地主神、金山毘古命を祭神とする明神大社です。

金峯神社は、世界遺産の登録資産となっています。

境内左横を下った所に、追っ手に追われた義経が弁慶らと身を隠したという「義経隠れ塔」があります。

金峯神社の拝観について

住所
〒639-3115 吉野郡吉野町吉野山1651

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問合せ

吉野水分神社:0746-32-3012

拝観時間
自由参拝
拝観料金
 無料 / (義経隠れ塔 300円)
駐車場
なし
最寄りの駅等
バス停「奥千本口」より徒歩5分

大峯山寺(おおみねさんじ)

現在の本堂は、江戸時代の建立で、その後拡張されて現在の規模になりました。

大峯山寺は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素の1つです。

宗教的な理由から今なお女人禁制を守り続け、女性の入山は禁止されています。

大峯山寺の拝観について

住所
〒638-0431 洞川703

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問合せ

TEL:0747-64-0001(龍泉寺)

登拝期間
戸開式 5月3日
戸閉式 9月23日
登拝期間が決められており期間外は登拝することが出来ません。
登拝について
本格的な登山道のようです。女人禁制です。
駐車場
有料駐車場あり(登山口)
最寄りの駅等
洞川温泉バス停

竹林院(ちくりんいん)

聖徳太子が開き、空海も参籠したといわれる修験寺院。池泉回遊式の借景庭園の群芳園は、千利休が作庭し、細川幽斎が改修した庭園です。大和三庭園(慈光院、當麻寺中之坊庭園)の一つで、宿泊も可能です。

「じゃらん」で宿泊予約できるようです。

竹林院群芳園(じゃらん)

公式サイトはこちらです。

公式サイトが一番お得。ベストレート保証・吉野山 旅館 竹林院群芳園 「公式サイト」

竹林院の基本情報

住所
〒639-3115奈良県吉野郡吉野町大字吉野山2142

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問合せ

TEL:0746-32-8081

FAX:0746-32-8088

駐車場
あり

桜の名所としての吉野山

吉野山は古来、金峯山寺を中心とする修験道の根本道場で、桜は修験道のご神木です。そのため桜は大切にされ、信者の献木によって数を増やしてきました。今ではおよそ3万本ともいわれる桜の名勝となっています。
およそ3万本の桜の多くはシロヤマザクラです。麓から順に下千本、中千本、上千本、奥千本とよばれ、標高差は約500m。気温差もあるため長い期間桜を楽しむことができます。
桜の開花状況は毎年3月以降吉野町役場のホームページに掲載されます。

観桜期情報(お花見情報) | 吉野町公式ホームページ

桜の時期は電車での移動をお勧めします。駐車場はすぐに満車になるそうです。また、有料バスや臨時バスもあります。

下千本

 吉野山の玄関口で、標高は約230m~350m。近鉄吉野駅あたりから金峯山寺あたりまでを言います。

下千本駐車場の場所

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中千本

金峯山寺あたりから竹林院あたりまでで標高は約350m~370m。下千本駐車場から歩いて15分ほどです。

上千本

 竹林院あたりから吉野水分神社あたりまでを言い標高は約390m~600m。急な坂道が続きます。桜の時期には吉野山各所から有料バスや臨時バスに乗ることで行くことが可能です。

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奥千本

金峯神社より上で西行庵あたりまでを言い標高は約600m~750m。最も遅く見ごろを迎えます。

吉野山の桜のビュースポット

花矢倉展望台

標高570mに位置し、吉野山全体が眺められる展望台で、吉野山の中でも特に眺めの良いスポットとして知られています。

〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山1711

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昭憲皇太后御野立跡

吉野山下千本エリアにある展望所で、ベンチも備えられています。明治天皇の皇后の昭憲皇太后が吉野山の桜を眺望された場所で、七曲りを眼下に下千本を一望できます。

〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山

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如意輪寺付近

境内の庭園から見渡せ、如意輪寺すぐ近くを通る観光車道からの眺めもおすすめです。バス停如意輪寺口から徒歩10分。駐車場もあります。

西行庵

吉野山の中でも一番山奥にあり、桜を愛した歌人・西行法師が武士を捨て、法師となり3年間侘住まいをしたとされます。

〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山639−3115

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吉野山の紅葉

桜の名所は秋の景色も絶景です。「桜紅葉」という言葉もあるとおり、桜は古くから紅葉も観賞されてきました。楓の紅葉よりも半月ほど早く紅葉の見頃を迎えます。桜の品種の中でも桜紅葉が美しいのがソメイヨシノです。ソメイヨシノは紅葉するタイミングが比較的揃っているため、一斉に赤や黄色に色づき、見ごたえある桜紅葉となります。桜紅葉が美しい木もあれば、色づく前に散る木もあります。シダレザクラなどは色づく前に茶色く枯れて散ることが多く、葉のサイズも小さめです。桜で有名な吉野山ですが、紅葉も見ごたえがあるようです。

 

日本の世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」

世界遺産として登録された「紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)」

2000年、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産暫定国内リストへの記載が決定し、2001年にユネスコの世界遺産暫定リストへの記載が決定しました。2004年7月7日に世界遺産(文化遺産)に記載され、日本では12番目の世界遺産となりました。2016年10月24日、パリのユネスコ本部で開催された世界遺産委員会臨時会合で、軽微な変更提案が承認され、参詣道の距離が当初の登録時から40.1km拡張され、総延長347.7kmとなりました。和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野参詣道)が登録対象となっています。

世界遺産登録の理由

顕著な普遍的価値の評価基準10項目のうち(2)(3)(4)(6)に該当し、「文化遺産」に登録されています。

世界遺産登録基準(2)(3)(4)(6)

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用です)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

具体的には、
(2) 紀伊山地の文化的景観を形成する記念碑と遺跡は、神道と仏教のたぐいまれな融合であり、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を例証する。

(3) 紀伊山地の神社と仏教寺院は、それらに関連する宗教儀式とともに、1000年以上にわたる日本の宗教文化の発展に関するひときわ優れた証拠性を有する。
(4) 紀伊山地は神社・寺院建築のたぐいまれな形式の創造の素地となり、それらは日本の紀伊山地以外の寺院・神社建築に重要な影響を与えた。
(6) と同時に、紀伊山地の遺跡と森林景観は、過去1200年以上にわたる聖山の持続的で並外れて記録に残されている伝統を反映している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

紀伊山地は人が分け入ることが困難な山岳地であることから、神仏が宿る場所とみなされ、崇拝されてきました。三霊場「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」は、自然崇拝に根差した「神道」と、中国大陸や朝鮮半島から伝来した「仏教」の融合によって「神道」「真言密教」「修験道」と独自の発展をし、ともに参詣道が形成・整備され、それらが良好な状態で残されていることと、信仰の文化が今も生き続けていることが評価されました。

「紀伊山地の霊場と参詣道」の資産の内容

「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する三霊場は「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」で「大峯奥駈道」「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」「高野山町石道」の参詣道が含まれ、それぞれの信仰の特徴を表す複数の記念工作物、遺跡、文化的景観が含まれます。

和歌山・奈良・三重の三県にまたがる資産の面積495.3haと、さらにその周囲に保護のために設けられた緩衝地帯11,370haを合わせて11,865.3haには、国宝4件、重要文化財23件の建造物をはじめ、史跡7件、史跡・名勝1件、名勝1件、名勝・天然記念物1件、天然記念物4件、合計41件の文化財が含まれます。

紀伊山地は自然信仰の精神を育んだ地で、6世紀の仏教伝来以降、真言密教を始めとする山岳修行の場となりました。特に修験道は、大峰山系の山岳地帯が発祥の地とされています。また、9~10世紀の「神仏習合」思想*1、10~11世紀頃の「末法思想」*2、死後に阿弥陀仏の居所である極楽浄土に往生することを願う「浄土宗」の教えなどの信仰がこの地を神聖化しているようです。深い山々が南の海に迫るという独特の地形や、両者が織り成す対照的な景観構成などの地形及び気候、植生などの自然環境に根ざして育まれた多様な信仰の形態を背景として、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」が形成されました。

霊場「吉野・大峯(よしの・おおみね)」の構成資産

紀伊山地中央の北部から中部の大峰山脈の山岳地帯にあり、三霊場の中で最も北に位置しています。北部を「吉野」、南部を「大峯」と呼び、10世紀中頃には、日本第一の霊山として中国にもその名が伝わるほどに、崇敬されるようになっていました。「吉野」は7~8世紀の都であった奈良盆地の南に位置し、古代から山岳信仰の対象となっていました。修験道の開祖とされる「役行者*3」縁の聖地として重視され、今もなお全国から修行のため多くの修験者が訪れています。神道と修験道に関連する記念工作物や遺跡が数多く残されました。「大峯」は、吉野と「熊野三山」との間を結ぶ大峰山脈の総称で、山岳での実践行を重んじる修験道では山での苦行の有名な舞台となっていました。

吉野山、吉野水分神社、金峯神社、金峯山寺、吉水神社、大峰山寺で構成され、大峰奥駈道で熊野と結ばれています。

吉野山(よしのやま)

吉野山とは、大峯連山の北の端から、南に約8kmつづく尾根一帯を指し、神社や修験道の寺院、宿坊、商店などが立ち並び、それらの周囲には桜の林が広範囲に分布しています。これは、霊木である桜を献木するという宗教行為によって植え続けられてきたもので、古来より日本一の桜の名所として知られ、多くの和歌や絵画にも表現され、信仰や芸術に関連する典型的な文化的景観を形成しています。
1924年12月9日、史跡・名勝に指定されています。

吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ) -重要文化財

古代における分水嶺に対する信仰を祭祀の起源とする神社で、12世紀には神仏習合により、神社の祭神が地蔵菩薩の垂迹*4とされてきました。
吉野水分神社社殿は本殿・拝殿・弊殿・楼門・回廊からなり、いずれも1901年3月27日、重要文化財(建造物)に指定されています。
現在の社殿は、1604年に豊臣秀頼が再建したもので、中でも本殿は再建当時(桃山時代)流行した装飾性豊かな建築の典型です。

金峯神社(きんぷじんじゃ)

古代における金をはじめとする鉱物に対する信仰を祭祀の起源とする神社で、吉野山の地主神金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀ります。
修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、通過すべき4つの門が設定されていますが、そのうちの金峯山寺銅鳥居を「発心門」にあたる第一の門とし、「等覚門」「妙覚門」が山上ヶ岳に置かれ、金峯神社の社前に「修行門」にあたる鳥居が建てられています。

金峯山寺(きんぷせんじ)

金峯山寺の本堂は「山下蔵王堂」と呼ばれ、修験道の中心寺院として、信仰を集めてきました。約1300年前に役行者が開いたとされ、修験道の霊場として栄えました。敷地は東西約70m南北約120mで、本堂、二王門などの記念工作物が現存し、二王門、中門、大塔、食堂、回廊などの地下遺構も良好に残る考古学的な遺跡でもあります。
金峯山寺本堂(蔵王堂) -国宝
現在の建物は1592年に再建されました。本尊である蔵王権現の虚像三体を安置する高さ34mの東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築です。毎年4月には伝統儀式「花供懺法会」が盛大に行われています。
1902年4月17日、重要文化財に指定され、1953年11月14日、国宝に指定されています。
金峯山寺仁王門 -国宝
金峯山寺蔵王堂の北に北面して建つ正門で、現在の建物は1456年に再建されたもの。高さ20.3mに及び、細部意匠にも優れ、中世の和様二重門の代表例の一つとして貴重な存在です。
1906年4月14日、重要文化財に指定され、1953年11月14日、国宝に指定されています。
金峯山寺銅鳥居 -重要文化財
本堂から300m下がったところに立ち、現在の建物は1348年に焼失したあと、室町時代に再建されたものです。修験道の修行の入り口(発心門)として重視されてきた銅製の大鳥居です。
1942年12月22日、重要文化財に指定されています。

吉水神社(よしみずじんじゃ)

もとは吉水院という、金峯山寺に付属した修験宗の滞在所・宿泊所として利用され、明治初期の神仏分離令発令後、後醍醐天皇などを祀る神社となりました。
吉水神社書院 -重要文化財
前半修行者の滞在所兼宿泊所として用いられた書院造の建物で、15世紀前半に建立された部分と16世紀末に増築された部分からなります。「書院造」といわれる書院建築では、初期の例として貴重なものとなっています。
1915年3月26日、重要文化財に指定されています。

大峰山寺(おおみねさんじ)

奈良県南部の大峰山脈北部の主峰で標高1719.2mの山上ヶ岳の頂上に建立された修験道の寺院です。役行者の誓願に応じて蔵王権現が出現したと伝えられる霊地に建立され、「山上蔵王堂」とも呼ばれる本堂を中心として、蔵王権現の湧出岩や断崖上の行場、経塚遺跡などがあり、修験道の聖地の中で最も重要な場所とされています。また、行者が通過すべき4つの門のうちの第3番目に当たる「等覚門」や第4番目に当たる「妙覚門」、石碑・梵鐘・灯籠などが存在しています。
大峰山寺本堂 -重要文化財

16世紀後半に焼失、17世紀後半に再建に着手し、1703年完成しました。峻険な山頂に建つものとしては他に類例がなく、1983年から86年に修理した際の発掘調査では宗教儀式の遺構や祭器、仏像、鏡、経巻などが出土しています。

1973年6月2日、重要文化財に指定されています。

霊場「熊野三山(くまのさんざん)」の構成資産

紀伊半島南部に位置し、「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二寺と「那知大滝」「那知原始林」からなり、「熊野参詣道中辺路」によって相互に結ばれています。古くから神々が宿る場所として崇拝され、中国大陸や朝鮮半島から伝来した仏教と融合し、独自の発展を遂げました。三社はそれぞれ個別の自然崇拝に始まり、お互いに他の二社の祭神を祀るようになり「熊野三所権現」と呼ばれるようになりました。平安時代には「末法思想」が流行り「浄土信仰」の考え方が広まり、熊野三山は「浄土への入り口」とされ、浄土へお参りし、帰ってくるということで、死と再生を意味し、「よみがえりの聖地」として信仰を集めました。霊場を構成する社寺には神道、仏教、修験道、神仏習合に関連する記念工作物や遺跡が遺され、信仰の起源となった自然の景物を含む周辺地域と共に一体の文化的景観を構成しています。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)

かつては「熊野坐神社」とよばれ、熊野川の中州に鎮座していましたが、1889年の熊野川水害時に羅災し、流失を免れた主要社殿3棟を1891年に現在の場所に移築し再建しました。 2011年、紀伊半島大水害により、再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けましが、2014年には瑞鳳殿が再建されています。熊野三山の1つとして熊野十二所権現を祀っています。

熊野本宮大社社殿 -重要文化財

水害以前、1801~1807年再建時の部材が大部分を占め、熊野独特の建築様式を保つ神社建築群となっています。11世紀の参詣者の日記や1299年に描かれた絵画によって確認できる伝統的な形態を保持しています。

1995年12月26日、重要文化財に指定されています。

熊野本宮大社旧社地大斎原

熊野本宮大社の旧社地及び付属寺院の遺跡で、熊野川の中洲にあり、19世紀の切石積の基壇が遺され、その周囲の森林はかつて塔や護摩堂といった仏教施設が置かれていたところで、神仏習合の遺跡として貴重なものとなっています。

備崎経塚群

旧社地大斎原から熊野川を南に渡った対岸の備崎にあり、岸の丘陵にある経塚の群集遺跡です。
発掘調査により数多くの経塚が分布することが確認されています。19世紀には1121年の刻銘のある、わが国最大の陶製外容器が出土しています。

熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)

現在の社殿は1883年に炎上し、その後1951年再建された境内を中心に、背後の「権現山」と熊野川に浮かぶ「御船島」及び「御旅所」を含んで指定されています。神倉山中腹には、祭神が降臨したとして信仰される巨岩(ゴトビキ岩)を御神体とする「神倉神社」があります。ゴトビキ岩は山の斜面にヒキガエルの姿で鎮座する巨岩で、その周辺からは、3世紀の銅鐸をはじめ、12世紀を中心とする経塚が多数発見されています。また、この神倉神社で熾した神火を松明に移し山を駈け下る「熊野御燈祭」は原始信仰を受け継ぐ祭礼として、和歌山県の無形民俗文化財に指定されています。 

熊野速玉神社のナギ

境内には推定樹齢800年を誇る古木で、神木とされる天然記念物の「ナギの木」が壮大な樹冠を広げています。これは、1159年の社殿再建の際に平重盛が植えたものと伝えられています。 基部の幹周りが約5.45m、目通りの幹周りが約4.45m、高さが約 17.6mの老巨木である。樹幹の表面には縦溝がみられ、中軸をなす主幹がないことなどから、1株ではなく数株が合着して現在見る姿になったと考えられている。

熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)

那智山の中腹標高約500mの地点にあり、那智大滝に対する自然崇拝を起源とする神社です。熊野三山を構成する三神社の一つで、熊野十二所権現を祀るほか、那智大滝を神格化した「飛瀧権現」を併せて祀っているため、十三所権現とも呼ばれています。

熊野那智大社社殿 -重要文化財

主祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)です。

1853に再建されたもので、熊野独特の建築様式を保つ神社建築群です。1299年に描かれた絵画によると、再建された社殿は以前のものと形式がほとんど変わっていないことが分かっています。

社殿は熊野本宮大社や熊野速玉大社のように横一列に並ばず、三所権現をはじめとする主要五社殿と八社殿及び御県彦社が矩折して配置され、他の二山と違い、御瀧の神様を併せ祀っているため一柱多く神様を奉斎しています。

1995年12月26日、重要文化財に指定されています。

青岸渡寺(せいがんとじ)

1868年以前は、那智の滝を中心にした那智の「如意輪堂」として熊野那智大社と一体の寺院として発展しましたが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離しました。

約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路である「西国三十三所観音霊場巡礼」の第一番札所であり、今も観音信仰の中心的霊場として多くの巡礼者が参詣しています。

青岸渡寺本堂 -重要文化財

4世紀ごろ、インドの僧が開山し、豊臣秀吉が1590年に再建した素木造りの建築で、桃山時代の特徴を色濃く残しています。

1904年2月18日、重要文化財に指定されています。

青岸渡寺宝篋印塔 -重要文化財

本堂の北にあり、標高4.3mの、蓮花付きの台座上に台石を置き、台石には1322年に尼僧が願主となって造立した旨の銘文が刻まれています。

1953年3月31日、重要文化財に指定されています。

那智大滝(なちのおおたき)

那智大滝は「一の滝」とも呼ばれ、那智山の森林を水源とする高さ133m、幅13mの一段の滝としては日本一の落差を誇る滝です。銚子口の岩盤に3つの切れ目があって、三つの落口から流れ落ちるところから「三筋の滝」ともよばれています。那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地で、熊野那智大社、青岸渡寺の信仰の原点であり、また信仰の対象そのものでもありました。

那智原始林(なちげんしりん)

那智大滝の東側一帯に広がる温帯性と暖温帯性の植物が入り混じる約33.5haの常緑広葉樹林(照葉樹林)で、古くから熊野那智大社の神域として保護され、滝と一体となり、自然信仰に関連する文化的景観の典型です。

補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

那智大滝を約6㎞下った、2本の参詣道が合流する海岸近くに位置し、観音浄土である「補陀落山」に渡海する補陀落渡海信仰の拠点であった寺院です。

観音菩薩が降臨する霊場を補陀落といい、そこではすべての者の願いを聞き、救いの手を差し伸べるとされていました。補陀落山はインド南海岸の伝説上の山とされていますが、観音信仰によって補陀落に擬された場所は各地に存在し、日本では日光山や那智山などがその例となっています。那智山は補陀落山の東門とされ、平安前期から江戸中期にかけて観音浄土への往生を願って海へ入水する補陀落渡海が行われました。慶竜(けいりゅう)上人が貞観10年(868)に渡海したのが最も古いとされ、その後18世紀初頭まで渡海が続いていたといいます。『熊野年代記』によれば、この間20名の僧が渡海しているとのことです。渡海者は柩船の構造をした渡海船に乗り、外に出られないように扉をくぎでふさがれ、30日分の食糧と油を積み、呪文を唱えながら伴舟に曳かれて海へと旅立ったといわれています。これは海上他界観に基づく水葬と、熊野の修験道における捨身行が観音信仰に結びついたものです。

霊場「高野山(こうやさん)」の構成資産

標高800メートルの山上盆地に、816年、空海が真言密教の道場として「金剛峯寺」を創建し、信仰を集めてきました。現在も金剛峯寺と117の寺院が密集し、山岳宗教都市としての文化的景観を作り出しています。

「金剛峯寺」をはじめ、「慈尊院」「丹生官省符神社」「丹生都比売神社」からなり、それぞれが参詣道である「高野山町石道」で結ばれています。

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)

古来から高野山を含む紀伊山地北西部一帯の鎮守社として知られ、高野山金剛峯寺と密接な関係を保ってきた神社です。
仏教関連の堂舎多数が存在しましたが、明治初年の神仏分離令により仏教関連施設は撤去され現在は神道関係施設だけが残されています。ただ、鳥居は両部鳥居となっていて、これは神仏習合の神社に多くみられ、その名残ともいえるでしょう。

丹生都比売神社本殿 -重要文化財

高野山地域の地主神及び他地域から勧請された神々を祀る神殿で、第一殿から第四殿が左右に並んで社殿を構えています。2014年の「平成のご造営」の修復工事で本殿の塗装を江戸初期の配色に戻しています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

丹生都比売神社楼門 -重要文化財

神殿の前の大規模な木造楼門で、室町時代に建立された入母屋造・檜皮葺きの堂々とした楼門です。一般のご参拝はこの楼門前からとなります。

1908年4月23日、重要文化財に指定されています。

金剛峰寺(こんごうぶじ)

総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体がお寺で、東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広さを有しています。「伽藍地区」「大門地区」「金剛三昧院地区」「徳川家霊台地区」「本山地区」「奥院地区」の6つの地区からなり、真言密教の根本道場として信仰を集めてきました。

<伽藍(がらん)地区>

壇上伽藍とも呼ばれ、空海が高野山を開創する際に最初に着手した場所です。高野山の中心となる地区で、もともと南北中心線上に中門と金堂を配し、その後方に東西に並んで東に胎蔵界を表す根本大塔を、西に金剛界を表す西塔を置くという真言密教の教義を現した独特の伽藍配置となっていました。

金剛峯寺山王院本殿 -重要文化財

髙野山としては、いちばん大切な鎭守であって、丹生明神社、髙野明神社、総社の三棟からなり、今の建物は1521年の火災後に再建されたものです。本殿は向って右から「丹生明神社(一の宮)」「高野明神社(二の宮)」そして左端に「総社(三の宮)」が並んで建っています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

金剛峯寺不動堂 -国宝

1198年、鳥羽上皇の皇女八条女院の発願により創建、14世紀前半に建て直されました。鎌倉時代の和様建築で、平安期住宅様式を仏堂建築に応用したもので、本尊は、不動明王、脇侍は運慶作の八大童子です。

不動堂は1952年3月29日、国宝に指定されています。

<奥院(おくのいん)地区>

金剛峯寺を創建した僧空海が、生前自ら墓所と定めた場所を中心として、転軸・摩尼・楊柳の三山に囲まれた広大な集合墓地が営まれている地区です。空海が「即身成仏」を果たし、今もなお生き続けていると信じられている聖地で、全国各地から各階層の人々が継続的に建立した大小の石造五輪塔は20万基以上ともいわれ、現在も墓碑の建立が続いています。これら墓碑群と禁伐のスギ林が、深遠な文化的景観を形成しています。

金剛峯寺奥院経蔵 -重要文化財

空海の墓所である弘法大師御廟の東にあり、石田三成が1599年に母の菩提のため建立し、「高麗版一切経」が納められました。

1922年4月13日、重要文化財に指定されています。

佐竹義重霊屋 -重要文化財

常陸国佐竹藩主であった佐竹義重の霊屋(たまや)で、屋根は切妻造、檜皮葺きで、外面は、木造の卒塔婆型の角材で、正面、側面、背面と47本建て並べて壁にしており、極めて珍しい霊屋となっています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

松平秀康及び同母霊屋 -重要文化財

徳川家康の側室で、「お万の方」と、その子、秀康の霊屋で、秀康霊屋内には宝篋印塔五基が、母の霊屋内には宝篋印塔二基と五輪塔が納められています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

上杉謙信霊屋 -重要文化財

上杉謙信、景勝の木造霊屋です。1966年、解体修理が施され、屋根を檜皮葺に復旧しました。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

<大門(だいもん)地区>

高野山全体への入口になる総門である大門が建つ地区で伽藍地区の西側に位置します。

金剛峯寺大門 -重要文化財

高さ25.8m金剛峯寺の正門で、日本国内で最大級の木造二重門となっています。12世紀の創建以来焼失と再建を繰り返し、現在の建物は1705年再建されたものです。その後修理が行われ、1986年には、全面解体修理が施され、白木の状態であった表面を丹塗りとし、昔の状態に戻されました。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

<金剛三昧院(こんごうさんまいいん)地区>

金剛三昧院を中心とする地区で、金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫の源頼朝と子実朝の菩提を弔うため建立しました。

高野山の霊場化が、有力な貴族や武家による山上祈願所の寄進や建立によっても促進された事を示す事例として代表的なものです。

金剛三昧院多宝塔 -国宝

多宝塔とは、仏教建築の仏塔のひとつです。多宝塔としては、鎌倉初期の建立とされる滋賀県大津市の石山寺の多宝塔についで古く、多宝塔発祥の地、高野山では最古の物です。多宝塔の内部は須弥壇(しゅみだん)と言われる壇が設けられており、その前には仏師運慶作と伝えられる五智如来(ごちにょらい)像が安置されています。

1952年11月22日、国宝に指定されています。

金剛三昧院経蔵 -重要文化財

経典の収蔵庫として建てられたもので、建築様式は校倉造りで、鎌倉時代初期の校倉造りの建立物としては現存状態が非常によく、この時代のものは他に例が少なく価値のあるものとなっています。

1922年4月13日、重要文化財に指定されています。

金剛三昧院四所明神社本殿 -重要文化財

金剛三昧院の境内に鎮守として祀られている神社で、 四ヶ所の明神様をお祭りしているので、四所明神と言われています。高野山上の奥の院と麓の天野社の神仏習合の宗教形態の典型を示しています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

金剛三昧院客殿及び台所 -重要文化財

参詣者の応接及び宿泊を目的に建てられた木造建築で、桁行34.3メートル、梁間18.9メートル、一重、入母屋造で屋根は檜皮葺きとなっています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

<徳川家霊台(とくがわけれいだい)地区>

徳川幕府の初代将軍家康と2代将軍秀忠の霊屋を中心とする地域

金剛峯寺徳川家霊台 -重要文化財

江戸幕府初代将軍徳川家康(東照宮霊屋)と2代将軍秀忠(台徳院霊屋)の装飾華麗な木造霊屋が2棟並び、それぞれが透塀で囲まれ、正面に唐門があります。

1926年4月19日指定、重要文化財に指定されています。

<本山(ほんざん)地区>

金剛峯寺は1869年に青巌寺と興山寺を一本化したもので、今では高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の本坊が置かれ、宗務上の中心地となっています。現存する建物の多くは1862年に再建された青巌寺のもので、大主殿、奥書院を中心に、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、山門などが立ち並ぶ高野山上で最も規模の大きな木造建築群を構成しています。

慈尊院(じそんいん)

慈尊院は、816年、弘法大師が創建した寺で、高野山参詣の表参道の玄関口として伽藍を創建し、参詣者が一時滞在する場所ともなっていました。女人高野とも呼ばれ、女性の参拝の多い寺院です。

慈尊院弥勒堂

本尊である弥勒仏坐像を安置する本堂です。高野山が女人禁制だったことから、訪れた空海の母もここで逗留し、母の没後に弥勒菩薩を安置し祀ったということです。鎌倉時代後期の建築で、方三間(6.39m)、宝形造、桧皮葺の建物です。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

丹正官省符神社(にうかんしょうふじんじゃ)

金剛峯寺の荘園であった官省符荘の鎮守として丹生明神、高野明神の2明神を祀り、後に厳島明神・気比明神の2神を合祀し「四所明神」を祀るようになりました。慈尊院とともに空海が創建したもので、境内がつながっています。

丹生官省符神社本殿 -重要文化財

地主神及び地方から勧請された神々を祀る神殿で、室町時代後期の1517年再建の2棟と、1541年再建の1棟、社殿3棟からなります。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

参詣道(さんけいみち)の構成資産

三つの霊場に至る参詣道ならびに三つの霊場を相互に結ぶ参詣道で、大峰奥駈道、熊野参詣道、高野参詣道からなり、保存状態の良い部分が国の史跡に指定されています。道の大部分は幅1m前後と狭く、石畳や階段となっている部分もありますが、多くは山中の土の道で、沿道の山岳や森林と一体となった文化的景観を形成しています。

大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)

大峯奥駈道は、吉野・大峯と熊野三山を結ぶ修験者の修行の道で、標高2,000m級の山々が連なる大峰山脈の主稜線を踏破するように拓かれ、全行程約170kmに及び、修験道の最も重要な修行の場となっています。このうち約86.9kmが世界遺産として登録されています。 修験道の祖とされる役行者が8世紀初めに開いたとされ、修験道の最も重要な修行の場となっていた大峯奥駈道は、道の途中の行場で「宿」と呼ばれる信仰上の拠点が約120カ所設けられていましたが、17世紀になると75ヵ所の「靡」に整理されました。修験者にはこの奥駈が義務付けられ、回数を重ねることが重要とされているため、今も修験者の団体が毎年奥駈を実施しています。

2002年12月19日、史跡に指定されています。

仏経嶽原始林

大峰山脈の最高峰である仏経嶽を中心に約3㎞の尾根上にシラビソ林が亜高山性の常緑針葉樹林を形成しています。そのうち、約9haのシラビソ林が国の天然記念物に指定されています。

オオヤマレンゲ自生地

モクレン科の落葉低木で、八経ヶ岳を中心に、シラビソ林の林床や林縁にオオヤマレンゲが大群落を形成していますが、最も密度の高い弥山から八経ヶ岳を経て明星ヶ岳との鞍部に至る約108haのエリアが天然記念物に指定されています。

玉置神社境内
大峰山脈の南端に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くにあります。この玉置神社の起源は、玉置山自体を神体とする古代の自然崇拝にあるとも考えられています。鎌倉時代から宿が設けられ修験道の聖地とされ、境内には本殿・摂社・末社・社務所・神楽殿・絵馬堂・御神輿殿・梵鐘や、杉の巨樹群が林立しています。
玉置神社社務所及び台所 -重要文化財

1804年、玉置神社の別当寺・高牟婁院の主殿及び庫裏として建立されたもので、 神仏分離後は社務所・台所および参籠所(さんろうじょ)として使用されています。

1988年1月13日に重要文化財となりました。

熊野参詣道(くまのさんけいみち)

霊場「熊野三山」への参詣のために中世・近世を中心に利用された道で、時代と地域によって「熊野参詣道」「熊野古道」「熊野御幸道」など様々な名称で呼ばれてきました。「熊野三山」は、京都からも日本の各地からも遠い紀伊半島南東部に位置するため、参詣者のそれぞれの出発点に応じて複数の経路がありますが、大きく「紀伊路」「伊勢路」「小辺路」の3つの経路に分類されます。「紀伊路」は途中で紀伊半島を横断して山中を通る「中辺路」と、海岸沿いを通る「大辺路」の二本に分岐します。この、「中辺路」「大辺路」「小辺路」「 伊勢路」の4 ルートが世界遺産に登録されています。

<熊野参詣道中辺路>

京都から大阪・和歌山を経て田辺に至る紀伊路のうち、田辺から山中に分け入り熊野本宮に向かう、最も頻繁に使われた参詣道です。参詣道の途中に熊野神の御子神を祀った王子もしくはその遺跡が点在するのが最大の特徴で、21か所の王子と13ヶ所の茶屋跡などの遺跡が登録資産となっています。

湯峯温泉

約1800年前に発見されたという日本最古の温泉で、参詣者が参詣前に心身を温泉で清める「湯垢離場」として重要な役割を担ってきました。近くには、古くから参詣者のために道程の目安として建てられた熊野信仰の小さな神社「王子」社の一つ、「湯峯王子」が設けられています。

熊野川

「熊野本宮大社」から下流の河口部に位置する「熊野速玉大社」までの40㎞が登録資産となっています。中辺路を通り熊野三山を参詣する際、川舟で行き来することが多く、そのため「川の参詣道」として登録されています。

<熊野参詣道大辺路>

紀伊路のうち、田辺から海岸線に沿って南下し、熊野三山に至る約120㎞の道で、中辺路と比べて距離が長く、奥駈をする修験者や西国巡礼を三十三回行う「三十三度行者」と呼ばれる専門の宗教者が辿る道でした。ただし、江戸時代からは、信仰と観光を兼ねた人々の利用が記録されています。本来の姿が良好に保たれている範囲は限られていますが、美しい文化的景観に恵まれた道です。

<熊野参詣道伊勢路>

紀伊半島東岸を通り、伊勢神宮から熊野三山を結ぶ道で総距離は約160km。険阻な山坂の多い道で、随所に石畳が遺されています。伊勢本街道からの分岐点・田丸を起点とし、途中の「花の窟」から海岸沿いに七里御浜を通り熊野速玉大社に至る「七里御浜道」と、内陸部を熊野本宮大社へ向かう「本宮道」に分かれます。

七里御浜

「浜街道」とも呼ばれ、当初は熊野市木本から新宮市までの砂礫の海岸線「七里御浜」沿いを行く経路でしたが、17世紀には防風林が植えられてからは防風林のなかを歩く経路になりましたが、19世紀後半になっても海浜を歩いて向かう旅人もいたようです。沿道には景勝の地として参詣者に知られた「鬼ヶ城」や「獅子岩」があります。

花の窟

日本書紀にも登場し、日本最古の神社と伝えられています。社殿がなく、ご神体が伊勢路の分岐点に位置する巨岩で、太古の自然崇拝の神社です。

熊野の鬼ヶ城附獅子巖

石英粗面岩の岩壁が浪や風の浸食により生み出された伊勢路沿いにある景勝地で、熊野の鬼ヶ城は、数段にわたる階段状の洞窟になり、獅子巌は獅子のような形となっています。江戸時代に作成された旅行案内記には奇景として紹介されています。

<熊野参詣道小辺路>

紀伊半島中央部を南北に通り、高野山と熊野三山を最短距離で結ぶ参詣道で、熊野参詣道の中でも険しい経路の1つです。

高野参詣道

高野参詣道は、空海や、高野山への信仰のため人々が参詣に用いた道で、出発地点に応じて「高野七口」と呼ばれる複数の経路がありました。町石道、黒河道、京大坂道、小辺路、大峰道、有田・龍神道、相ノ浦道の七つの道を指し、町石道、三谷坂、京大坂道不動坂、黒河道の 4 ルートと女人道が世界遺産の参詣道の資産として登録されています。

高野参詣道 町石道

高野山参詣道のうち、空海が切り開き、その後最もよく使われた道で、沿道には一町(約109m)及び一里(三十六町・約4km)ごとに金剛峯寺の中心である壇上伽藍からの距離を刻んだ町石(石製道標)が建てられています。町石は、単なる道標ではなく、町石自体が一体の仏を表し、一町ごとに礼拝を重ねながら山上を目指した参詣の様子が伺えます。

高野参詣道 三谷坂

三谷坂は、丹生酒殿神社から丹生都比売神社に登る参道で、慈尊院を起点とする町石道よりも距離が短く、短時間での高野山への参詣が可能です。

高野参詣道 京大坂道不動坂

山麓の紀ノ川沿いから高野山へ向かう参詣道の中で、便利で安全、かつ早く登ることができるため、多くの参詣客で賑わいました。

高野参詣道 黒河道

江戸時代に交通の要衝であった橋本から高野山へ向かう最短経路で、山麓の紀ノ川沿いから女人道の子継峠に合流するまでの経路です。高低差が激しいため時間のかかるルートです。

高野参詣道 女人道

1872年まで高野山境内には女性は立ち入ることができませんでした。そのため外周に設けられた各女人堂を巡り山内を拝したことから、女人堂巡りの道が成立しました。女人道は女人堂巡りの道に加えて、高野山境内の外周にあたる奥院背後の高野三山頂上に祀られる菩薩像の巡拝道を含みます。

関連資料

 

*1:日本古来の神々は仏教の諸尊が姿を変えて現れたものとする日本固有の思想

*2:仏法が衰え世も末になるという思想

*3:えんのぎょうじゃ-修験道の開祖とされる人

*4:仏・菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れること

これからの世代に残したいもので最初に思いついたのは世界遺産だった

世界遺産は私たちが過去から受け継ぎ、未来へ残すべき大切な宝です。 そこで世界文化遺産について調べてみたいと思いました。
世界文化遺産は文化遺産と自然遺産があり、文化遺産は世界遺産のうちの一つということがわかりました。日本では慣例的に自然遺産を世界自然遺産と呼び、文化遺産を世界文化遺産と呼んでいるようです。

世界遺産とは

世界遺産はどのようなものなのかもう少し具体的に調べてみたいと思います。
「1972年、ユネスコ総会で採択された『世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約』(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき顕著な普遍的価値を持つ物件のことで、内容によって文化遺産、自然遺産、複合遺産の3種類に分けられる」事がわかりました。ちなみに無形文化遺産については世界遺産とは扱いが違うという事です。

つまり、2018年に登録された来訪神などは世界遺産とは扱いが違うのだということがわかります。こちらは「無形文化遺産」で、無形文化財の扱いについては2003年にユネスコで採択されたようです。今まで混同していましたが、物件ではないものは無形文化財だということが理解できます。

世界遺産の登録まで

世界遺産に登録されるには、いくつもの手続きや調査が必要なことは分かります。例えば、これから登録予定の「百舌鳥もず・古市ふるいち古墳群」はどのように世界遺産に登録されるのでしょう。
まず、2018年時点で世界遺産条約締約国が193か国あり、各国で暫定リストが作成されているようです。世界遺産一覧表に登録されるには、21か国の委員国で構成される「世界遺産委員会」での決定が必要となります。しかしその前に、専門家などで構成される諮問委員会が調査し
(ア)記載 : 世界遺産一覧表に記載するもの
(イ)情報照会 : 追加情報の提出を求めた上で次回以降に再審議するもの
(ウ)記載延期 : より綿密な調査や推薦書の本質的な改定が必要なもの(再度イコモスの審査を受ける必要があるもの)
(エ)不 記 載 : 記載にふさわしくないもの
の勧告を「世界遺産委員会」に提出し、委員会ではそれを踏まえたうえでの決定となります。
現在、「世界遺産一覧表」への記載に向け、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」及び「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」について、ユネスコ世界遺産センターへ推薦書を正式に提出しています。

文化遺産の種類

世界遺産について簡単に調べてきました。そこでまず、文化遺産についてみていきたいと思います。文化遺産には下記のような種類があります。

記念物(記念工作物)

「建築物、記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的な性質の物件及び構造物、金石文、洞穴住居並びにこれらの物件の組合せであって歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの(文化遺産 (世界遺産) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)」と定義されます。少しわかりにくいですね。そこで日本での文化遺産について調べてみると下記のような記述がありました。

日本における記念物の扱い(文化財保護法第2条第1項第4号より)

「貝づか、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で我が国にとって歴史上又は学術上価値の高いもの、庭園、橋梁、峡谷、海浜、山岳その他の名勝地で我が国にとって芸術上又は観賞上価値の高いもの並びに動物(生息地、繁殖地及び渡来地を含む。)、植物(自生地を含む。)及び地質鉱物(特異な自然の現象の生じている土地を含む。)で我が国にとつて学術上価値の高い遺跡、名勝地、動植物および地質鉱物を「記念物」としています。」

これを見ると、お寺などの庭園などは記念物の扱いになるようです。

建造物群

「独立し又は連続した建造物の群であって、その建築様式、均質性又は景観内の位置のために、歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの(文化遺産 (世界遺産) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)」と定義されます。
日本では法隆寺地域の仏教建造物、姫路城など多くの建造物が世界遺産に登録されています。

遺跡

「人工の所産(自然と結合したものを含む。)及び考古学的遺跡を含む区域であって、歴史上、芸術上、民俗学上又は人類学上顕著な普遍的価値を有するもの(文化遺産 (世界遺産) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)」と定義されます。
この分類の代表として、クンタ・キンテ島と関連遺跡群(ガンビア)、キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群(タンザニア)、フィリピン・コルディリェーラの棚田群などがあげられています。

すべての文化遺産がこの3種類に分かれるのでしょうか。それでは今回登録される予定の「百舌鳥もず・古市ふるいち古墳群」は記念物と言う事でしょうか。こうしてみていくとどんどん疑問がわいてきます。

世界遺産(文化遺産)の登録基準について

世界遺産に登録されるには以下の登録基準に一つ以上あてはまらなければなりません。「百舌鳥もず・古市ふるいち古墳群」の登録基準は2・3・4のようです。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。 
この基準は、創造的才能を発揮した個人に帰する物件に適用されるのが一般的ですが、制作者も制作年代も定かではない物件であっても、適用されることがあります。
例)タージ・マハル(インド)、シドニー・オペラハウス(オーストラリア)、プレアヴィヒア寺院(カンボジア)、アントニ・ガウディの作品群、建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群 (ブリュッセル)、ティヤの石碑群(エチオピア)など
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 
交易上の要衝など、文化交流に寄与した文化遺産にも適用されます。
例)シルクロード長安-天山回廊の交易路網(中国、カザフスタン、キルギス)、コローメンスコエの主昇天教会(ロシア)、シュパイアー大聖堂(ドイツ)、ホレズ修道院(ルーマニア)、ゲガルド修道院とアザト川上流域(アルメニア)、スウェルの鉱山都市(チリ)、王立展示館とカールトン庭園(オーストラリア)など
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
考古遺跡や人類化石遺跡などにも適用されています。
例)ブリッゲン(ノルウェー)、アルタの岩絵(ノルウェー)、ミュスタイアのザンクト・ヨハン修道院(スイス)、ベルン旧市街(スイス)、ブトリント(アルメニア)、ヘラクレスの塔(スペイン)、ベニ・ハンマードの城塞(アルジェリア)、メサ・ヴェルデ国立公園(アメリカ合衆国)、ナスカとフマナ平原の地上絵(ペルー)、モヘンジョダロ(パキスタン)、南アフリカの人類化石遺跡群(南アフリカ共和国)など
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 
例)ルーゴのローマ城壁(スペイン)、レヴォチャ歴史地区、スピシュスキー城及びその関連する文化財(スロバキア)、フォントネーのシトー会修道院(フランス)、ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル(スイス)、クロンボー城(デンマーク)、ペタヤヴェシの古い教会(フィンランド)、バハラ城塞(オマーン)、アブ・メナ(エジプト)、ビニャーレス渓谷(キューバ)、グアラニーのイエズス会伝道所群(ブラジル・アルゼンチン)など
(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。 
例)クルシュー砂州(ロシア / リトアニア)、マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷(アンドラ)、ホッローケーの古い村落とその周辺(ハンガリー)、ヴェーガ群島(ノルウェー)、アシャンティの伝統的建築物群(ガーナ)、オマーンの灌漑システム・アフラジ(オマーン)など
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。 
例)原爆ドーム(日本)、ゴレ島(セネガル)、アウシュヴィッツ強制収容所(ポーランド)、リラ修道院(ブルガリア)、独立記念館(アメリカ合衆国)、ランス・オ・メドー国定史跡(カナダ)など
(参考:文化遺産 (世界遺産) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


登録に当たっては複数の基準が適用されることが多く、6項目全てが適用された物件は莫高窟(中国)、泰山(中国)、ヴェネツィアとその潟(イタリア)の3件のみです。

日本の世界遺産

日本では2022年1月現在25件登録されています。ちなみに自然遺産は5件となっています。日本の世界遺産についてはこれからもすこしずつ見ていきたいと思いますのでここでは件数のみの記載とします。
ちなみに2021年7月現在,世界遺産は文化遺産897件,自然遺産218件,複合遺産39件を含む1,154件で、今後まだまだ増えていくと思われます。また、登録されても、登録基準を満たさなくなったものは削除されることもあるので登録されたからといってそのままではいけません。登録前に保存の観点でも審査基準が設けられているようです。
世界遺産に限ったことではありませんが、歴史的財産や美しい自然を守っていかなければいけないと強く思いました。

日本で最初に世界遺産に登録された「法隆寺地域の仏教建造物」

日本では1993年12月、法隆寺地域の仏教建造物(奈良県)と姫路城(兵庫県)が世界遺産(文化遺産)に最初に同時登録されました。ここでは法隆寺地域の仏教建造物(奈良県)についてみていきたいと思います。

法隆寺地域の仏教建造物の登録基準

(平成5年記載)登録基準(1)(2)(4)(6)

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
具体的には、
(1) 法隆寺の建造物群が、木造建築としての構造・配置両観点から傑作である。
(2) 同建造物群が仏教伝来直後の仏教建築物で、日本の宗教建築に深い影響を及ぼした。
(4) 同建築物群は、中国文化への順応、日本の寺院建築の配置、および、結果的に日本独特の様式を確立した代表的な例である。
(6) 日本への仏教の流入、および聖徳太子の仏教奨励が、同地域への仏教の浸透に際立った特徴を示している。
法隆寺地域の仏教建造物 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これは、法隆寺が細かな装飾や外観などさまざまな点で木造建築の傑作であり、仏教建造物としてわが国では最初の時期のものであり、その後の宗教建築に大きな影響を与えていること、中国伝来の寺院建築ではあるが、そこに日本独特の様式が採用されていること。そしてわが国の仏教の浸透に法隆寺が重要な役割を果たしたことが基準になったという事でしょう。

具体的な物件は法隆寺と法起寺です。登録地域の面積は、構成資産 15.3ヘクタール、それを保護する緩衝地帯 570.7ヘクタール合計586.0ヘクタールとなっています。詳しくは世界遺産一覧表記載推薦提案書(文化庁)のサイトで確認できます。

国宝・重要文化財指定建造物目録

法隆寺は、西院と東院と子院群で構成されており、世界遺産に登録されているのは47棟。そのうち8世紀以前に建造された金堂、五重塔、中門、回廊は、現存する世界最古の木造建造物です。

法隆寺西院

西院では、回廊に囲まれて東西に金堂・塔が配置され、左右非対称となっています。この配置は、創建以後多少の改変はありましたが、創建当初の名残を残しているという事です。さらに付属する建造物も現存しているため、古代仏教寺院の構成の全貌がほぼ完全に残っています。現在、金堂や塔をはじめとして15棟が国宝に、6棟が重要文化財に指定されています。金堂は遅くとも680年ごろまでに完成し、それに続いて五重塔・中門・回廊、710年ごろには伽藍全体が完成しています。

1.金堂

世界最古の木造建造物で、西院伽藍最古の建築です。 内部は土築の仏壇を構え、中の間、東の間、西の間に分かれ(これらの間に仕切はありません)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置されています。
重要文化財指定年月日:1897年12月28日、国宝指定年月日:1951年6月9日

2.五重塔

日本最古の塔である五重塔は、五重目の軸部が初層の半分の大きさになっています。一番下の初重の内部には、東面・西面・南面・北面の4つの方角それぞれに塑造の群像(粘土の彫刻の事)が安置されています(塔本四面具)。心柱の下にある心礎には、仏舎利が納められているようです。
重要文化財指定年月日:1897年12月28日、国宝指定年月日:1951年6月9日

3.中門

中門は現在入り口として使われていません。中門の左右には日本最古の金剛力士立像が安置されています。大きく口を開いて右に立つのが阿形像。口を閉じてやや左下をにらみつけて左に立つのが吽形像です。
重要文化財指定年月日:1897年12月28日、国宝指定年月日:1951年6月9日

4.回廊

回廊は東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵、五重塔と金堂を囲んでいます。法隆寺の回廊は左右対称ではありません。このことによりバランスがよく見えるのだそうです。また、この回廊の柱は上下の太さが異なる「エンタシス」というスタイルになっています。これもバランスを考えての事と思われます。
重要文化財指定年月日:1899年4月5日、国宝指定年月日:1951年6月9日

5.大講堂

法隆寺の建物の中でもひときわ大きい大講堂では、法隆寺伝統の行事が開かれています。大講堂の須弥壇上(仏教寺院において本尊を安置する場所)には薬師三尊像と四天王像「薬師三尊像」と「四天王像」が安置されています。
重要文化財指定年月日:1899年4月5日、国宝指定年月日:1951年6月9日

6.経蔵

経蔵は楼造りの堂舎であり、現存する楼造の建物のなかでは日本最古と言われています。天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正坐像が安置されています。
重要文化財指定年月日:1899年4月5日、国宝指定年月日:1951年6月9日

7.鐘楼

経蔵と対称位置に建ち、時を知らせる梵鐘を奉納されている建物です。925年、大講堂とともに落雷により焼失し、現在の鐘楼は経蔵の様式にならって平安時代中期に再建されたものです。
重要文化財指定年月日:1899年4月5日、国宝指定年月日:1951年6月9日

8.上御堂

このお堂は奈良時代、天武天皇の皇子である舎人親王の発願によって建立したといわれていますが、定かではありません。当初の建物は、台風で倒壊したことを伝える記録があり、現在の建物は鎌倉時代に再建されたものです。堂内には平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像が安置されています。
重要文化財指定年月日:1898年12月28日

9.南大門

法隆寺には大門が三ヶ所あり、その中で一番大きな門です。正面玄関にあたる門で、現在みることのできる南大門は室町時代中期に再建されました。平安時代より以前では、現在の中門あたりに造営されていたと云われていますが、寺域の拡大により現在の場所に移されたと言われます。創建時のものは、1435年に焼失してしまい、現在の南大門は1438年に再建されました。一重の門で、本柱四本の前後にそれぞれ控え柱が合わせて八本ある八脚門で、屋根は室町様式の単層入母屋造りとなっています。
重要文化財指定年月日:1901年3月27日、国宝指定年月日:1953年3月31日

10.西円堂

峯の薬師と呼ばれ、薬師如来像を安置する八角円堂の西円堂があります。現在の建物は1250年に再建されています。 堂内中央の薬師如来像を取り囲むように十二神将像が、また東面には千手観音像、北面には不動明王像が安置されています。また、西円堂の内部の薬師如来坐像の周囲には、刀剣や鏡が安置されているようです。
重要文化財指定年月日:1901年3月27日、国宝指定年月日:1955年2月2日

11.聖霊院

聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために、東室の南端部を改造したのがこの聖霊院です。このときの聖霊院は東室の一部でしたが、弘安七年(1284)に全面的に建て替えられ、現在の姿になりました。聖霊院の内部には聖徳太子及び眷属像、如意輪観音半跏像、地蔵菩薩立像が安置されています。例年・3月22日の聖徳太子の命日の時に特別に一般公開されます。
重要文化財指定年月日:1901年3月27日、国宝指定年月日:1952年11月22日

12.東室

西院伽藍の東西には、それぞれ東室・西室という南北に長い建物があります。東室は法隆寺西院回廊の東側に位置する僧房で、法隆寺に住む僧が生活していた建物です。基本的には奈良時代の建築で、現在の建物は、1284年(弘安7年)にやや規模を大きくして新造されたものです。
重要文化財指定年月日:1942年6月26日、国宝指定年月日:1965年5月29日

13.食堂

もとは政所という法隆寺の寺務所であったといわれますが、平安時代に多数の僧侶が食事をする食堂としてとして使われるようになりました。細殿とともに双堂と言われる建築様式を今に伝えています。
重要文化財指定年月日:1901年3月27日、国宝指定年月日:1952年11月22日

14.細殿

食堂と並んで双堂と言われる建築様式。食堂は国宝、細殿は重要文化財に指定されている。
重要文化財指定年月日:1901年3月27日

15.東大門 

「中ノ門」ともよばれるこの門は、かつては鏡池の東側に南向きで造営されていたようですが、平安時代に西院と東院の間に移設されてきたようです。 この門は奈良時代の三棟造りという様式の門です。(三棟造りとは門またはその他の建築で、棟とその両脇の母屋桁から棟下に向けて垂木を打ち流し、下から見ると山形が2つ連なった姿に見える造り方のことです。)
重要文化財指定年月日:1904年2月18日、国宝指定年月日:1952年11月22日

16.三経院・西室 

三経院は、聖徳太子の撰と伝えられる法華経・勝鬘経・維摩経の三経の注釈書の総称で「三経義疏」にちなんで付けられた名称で、僧の住まいである西室の南端部を改造して建てられました。三経院には、阿弥陀如来座像、持国天、多聞天立像が安置されています。西室では毎年、夏安居の3ヶ月間(5月16日~8月15日)、三経の講義を行っています。
重要文化財指定年月日:1908年4月23日、国宝指定年月日:1955年2月2日

17.妻室 

東室の東に建つ細長い建物。東室と同様に僧坊としての建物です。本来は東室小子房といい、東室の大房と一組をなしているようです。大房には上位の僧侶が住み、小房にはその僧侶に仕える者が住んでいたようです。
重要文化財指定年月日:1942年6月26日

18.綱封蔵 

聖霊院の東に建つ、奈良時代から平安初期までの倉庫。この倉は当初は綱封蔵ではありませんでしたが、平安時代から鎌倉時代初頭の間に境内にもう1つあった綱封蔵が倒壊したために、その時から綱封蔵になったものと考えられます。部材の材質や手法から、建立年代は平安時代中ごろと推定されます。双倉として現存する例は東大寺正倉院宝庫とこの綱封蔵の二棟だけですが、本来の双倉の姿で残るのは、法隆寺の綱封蔵だけです。
重要文化財指定年月日:1942年12月22日、国宝指定年月日:1967年6月15日

19.大湯屋 

法隆寺の住職の住居である「本坊・西園院」の奥、築地塀で囲まれた内側にあります。湯屋とは、簡単に言うと昔の「お風呂」がある施設となっており、僧侶たちがここで「身を清める」ための沐浴を行っていたとされています。
重要文化財指定年月日:1942年12月22日

20.大湯屋表門 

大湯屋の北側、築地塀にあります。築地塀は粘土を突き固めて作った塀の事で単に築地とも言います。
重要文化財指定年月日:1942年12月22日

21.大垣 

南大門の左右に伸びています。粘土を突き固めて作った築地塀で、西院大垣 3棟と東院大垣 3棟 があります。
重要文化財指定年月日:1943年6月9日

法隆寺東院

8世紀前半に建設した伽藍で、13世紀には、夢殿と伝法堂以外の建造物は建替えられています。現在の建造物はこのときのものです。夢殿をはじめ3棟が国宝、6棟が重要文化財に指定されています。

22.夢殿 

高僧の行信が、奈良時代に聖徳太子の遺徳を偲んで斑鳩宮跡に建立した八角円堂です。高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、元は「仏殿」と呼ばれていましたが、平安時代ごろから「夢殿」と呼ばれるようになりました。現在の堂は1230年に大改造を受け、屋上の宝珠露盤などに天平の面影を残しています。八角円堂の中央の厨子には、救世観音像を安置し、その周囲には聖観音菩薩像、乾漆の行信僧都像、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。
重要文化財指定年月日:1897年12月28日、国宝指定年月日:1951年6月9日

23.南門 

東院礼堂の南側に位置する別名不明門ともいい、あかずの門となっています。 1459年建立。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日

24.四脚門 

東院四脚門は鎌倉時代の建立で、夢殿がある東院伽藍の入り口にあたります。四脚門とは日本の門の建築様式のひとつで、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てたもので四足門とも呼ばれます。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日

25.礼堂 

夢殿を囲む回廊の南に位置する堂が礼堂です。現在の礼堂は鎌倉時代に再建されたもので、昭和の修理時に旧形式に復原されています。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日

26.廻廊 

夢殿を囲むように回廊があります。回廊南側に礼堂、北側に舎利殿が立っています。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日

27.鐘楼 

下層に覆いをつける袴腰形式としては現存する日本最古のものです。内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊るされ、舎利殿の舎利を奉出するときや、東院伽藍で法要が営まれる時の合図として撞かれています。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日、国宝指定年月日:1955年2月2日

28.伝法堂 

伝法堂は聖武天皇の夫人である橘古那可智の住宅を仏堂に改造したものです。内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像が安置されています。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像も安置されています。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日、国宝指定年月日:1951年6月9日

29.舎利殿・絵殿 

絵殿には、摂津国(現在の大阪府)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が延久元年(1069年)に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵(国宝)が飾られていました。太子の生涯を描いた最古の作品ですが、明治11年(1878年)、当時の皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっています。代わりに「聖徳太子絵伝」が飾られています。舎利殿には聖徳太子が2歳の春に東に向って合掌した際、掌中から出現したという舎利(釈迦の遺骨)を安置しています。舎利殿と絵殿で1棟。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日

30.大垣 

西院大垣 3棟と東院大垣 3棟 があります。
重要文化財指定年月日:1943年6月9日

法隆寺子院その他の建造物

子院に関する資料はあまりないようですが、平安時代末期には既に存在していたようです。当初 の子院 は、子院 を囲む築地 もなく坊合のみで生囲などで周囲 をめ ぐらしていたと考えられます。1261年になると寺内の大整備が行われ、子院の築地が築かれました。16世紀から17世紀にかけて最も盛んに子院が建設されました。子院の建造物のうち、13世紀から17世紀にかけて建造された本堂・客殿・門など17棟が重要文化財に指定されています。

31.北室院本堂

重要文化財指定年月日:1904年2月18日

32.北室院表門

重要文化財指定年月日:1911年4月17日

33.北室院太子殿

重要文化財指定年月日:1943年6月9日

34.地蔵堂

重要文化財指定年月日:1908年4月23日

35.新堂

重要文化財指定年月日:1911年4月17日

36.宗源寺四脚門(勧学院表門)

重要文化財指定年月日:1921年4月30日

37.福園院本堂

重要文化財指定年月日:1942年6月26日

38.西園院客殿

重要文化財指定年月日:1942年12月22日

39.西園院上土門

重要文化財指定年月日:1942年12月22日

40.西園院唐門

重要文化財指定年月日:1943年6月9日

41.宝珠院本堂

重要文化財指定年月日:1942年12月22日

42.薬師坊庫裡

重要文化財指定年月日:1943年6月9日

43.中院本堂

重要文化財指定年月日:1947年2月26日

44.律学院本堂

重要文化財指定年月日:1976年5月20日

45.旧富貴寺羅漢堂

重要文化財指定年月日:1971年12月28日

46.東南隅子院築垣

重要文化財指定年月日:1943年6月9日

47.西南隅子院築垣

重要文化財指定年月日:1943年6月9日

法起寺

法起寺は7世紀に創建された寺院ですが、いまは三重塔のみが残っており、同時代の法隆寺西院建造物と共通する特徴を備える建物です。ただ、着工年は法隆寺の五重塔の方が古く、世界最古の木造の塔は法隆寺の五重塔とされていますが、三重塔としては世界最古となります。

48.三重塔

「法起寺三重塔露盤銘」という史料により、創建は706年だということがわかっています。建立後は、何度も大修理が行われたため、建立当初の形式が明らかでないところもありますが、昭和45年から50年にかけての解体修理の際、それまでの研究成果を踏まえた復元がされ、現在に至っています。
初重内部は土間で四天柱と八角の心柱を立て、四天柱の上に肘木と斗を組んでいますが、二重以上は骨組がいっぱいに組まれています。初重にある仏壇は近世のもので、法隆寺の五重塔のような須弥山が作られた形跡や古い仏壇の痕跡がないので、当初の状況は明らかではありません。

法隆寺について

飛鳥時代、百済から仏教が伝わり、廃仏派(物部氏)と崇仏派(蘇我氏)は衝突を繰り返しました。戦いは蘇我氏の勝利に終わり、ここから蘇我氏の独裁政治が始まりました。蘇我氏は強大な力を背景に女帝を誕生させました。それが推古天皇で、その時に摂政(政治のすべてを任された)の地位についたのが厩戸皇子(聖徳太子)です。厩戸皇子(聖徳太子)は仏教をより盛んにするために法隆寺(別名斑鳩寺)を建築しました。建立に関しては諸説あるものの、聖徳太子こと厩戸皇子が建立したことはほぼ間違いがないようです(「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という学説が唱えられて以来、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王子(聖徳太子)」という表現に変わっているようです)。

法隆寺の国宝(美術品)

世界遺産として登録されているのは建造物ですが、他にも法隆寺が保有している国宝は美術品として20件あります。文化財の数え方は「件数」で、例えば「木造四天王立像」は四体まとめて一件と数えます。

彫刻

(仏像は重要文化財のうち彫刻に分類されます。仏像は大きく「如来」「菩薩」「明王」「天部」の4グループに分類されます。このほか神像や高僧像などもあります)
乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)…行信は法隆寺東院の復興に尽力した奈良時代の僧で、乾漆(乾漆とは石膏などで型を作り、麻布を貼り合わせて作る技法です)の仏像です。
乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)…乾漆の仏像で、薬師如来は病気をいやしてくれる如来です。
塑造塔本四面具(五重塔安置)…東面が菩薩と維摩居士の問答、西面が釈迦仏舎利、南面が弥勒浄土、北面が釈迦涅槃(釈迦の入滅)の様子を塑造(粘土で作られた彫刻の事)の群像で表しています。
塑造道詮律師坐像(所在夢殿)…道詮は法隆寺夢殿を再興し、法隆寺の学問振興に力を注いだ僧で、律師とは僧官の職位です。塑像の高僧像です。
銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏) 木造厨子…伝橘夫人が身辺に置き私的に礼拝するための仏像で、木造の厨子(仏像などを安置する仏具の一種)に阿弥陀三尊像が安置されています。中央に阿弥陀如来像左に勢至菩薩右に観音菩薩三体一組で阿弥陀三尊像といいます。
銅造観音菩薩立像(夢違観音)…夢違観音は通称で正式には聖観音で、人々の願いに応じて姿を変えます。聖観音は観音菩薩の基本的な姿です。
銅造釈迦如来及両脇侍像〈止利作/(金堂安置)〉…銅像の阿弥陀三尊像です。
銅造薬師如来坐像(金堂安置)…銅像の薬師如来像です。
木造観音菩薩立像(九面観音)…頭上に九面ありあらゆる方向を見て人々を救います。(通常十一面だと思うのですが、なぜ九面なのかわかりませんでした)
木造観音菩薩立像(夢殿安置)…通称「救世観音」とも呼ばれます。これも聖観音です。
木造観世音菩薩立像(百済観音)…聖観音です。
木造四天王立像(金堂安置)…日本最古の四天王像で、南東に持国天、南西に増長天、北西に広目天、北東に多聞天がたっています。
木造釈迦如来及両脇侍坐像(上堂安置)…木造の阿弥陀三尊像です。
木造聖徳太子〈山背王、殖栗王/卒末呂王恵慈法師〉坐像(聖霊院安置)…正装の聖徳太子像です。笏を持ち、豪華な冠を付けていることから正装であることがわかります。
木造地蔵菩薩立像…地蔵菩薩は地獄など、あらゆる世界を巡って人々を救う菩薩です。
木造毘沙門天立像(金堂安置)・ 木造吉祥天立像(金堂安置)…毘沙門天・吉祥天はともに天部で仏教の敵から守るために働きます。毘沙門天は福徳と戦闘の神で北方を守護する多聞天の別名です。吉祥天は五穀豊穣をもたらす美しき女神です。
木造薬師如来及両脇侍坐像(講堂安置)…木造の薬師三尊像です。薬師如来像の左に月光菩薩・右に日光菩薩が配置されています。一般的には薬師如来像を坐像、月光菩薩・日光菩薩を立像となっていますが、ここの像はともに坐像となっています。

工芸品

玉蟲厨子…仏教工芸品で装飾に玉虫の羽を使用していることからこの名前が付けられたようです。
黒漆螺鈿卓…黒漆の卓(細長いちゃぶ台のようなもの)です。
四騎獅子狩文錦…錦織物で、染織物としてはとても大きなもののようです。

法隆寺の基本情報

住所
〒636-0115 生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
TEL/FAX
0745-75-2555 / 0745-75-0102
拝観時間
2/22~11/3 :午前8時~午後5時
11/4~2/21 :午前8時~午後4時半
※閉館時間が近づくと入れない施設がございます。
拝観料
西院伽藍内/大宝蔵院/東院伽藍内共通
個人料金(1名に付き)
一般1,500円 / 小学生750円
団体料金(30名以上 1名に付き)
一般1,200円 / 大学・高校生1,050円 中学生 900円 / 小学生600円
※生徒人数が30名に満たない小学校、中学校は、減免申請書(見本参照)を拝観窓口に当日提出すると団体扱いになります。
減免申請書には、教育委員会、または学校長の公印が必要です。

法起寺の基本情報

住所
〒636-0102 生駒郡斑鳩町岡本1873
TEL
0745-75-5559
拝観時間
2月22日~11月3日:午前8時30分~午後5時
11月4日~2月21日:午前8時30分~午後4時30分
拝観料

個人料金(1名に付き)
一般300円 / 小学生200円
団体料金(30名以上 1名に付き)
一般250円 / 大学・高校生200円 / 中学生150円 / 小学生100円

沖縄の世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」について

世界遺産沖縄の「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(平成12年記載)について

小さな島国だった琉球は、14世紀後半から18世紀末の間、中国、韓国、東南アジアと日本との仲介貿易で大きな役割を演じ、その特徴を表す文化遺産群として、「グスク」と呼ばれる城塞建築が集中する沖縄本島中部を中心に、国頭から島尻にかけて9つ(今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)の遺産が登録されました。重要文化財2棟、史跡7、内特別名勝1つが含まれています。

琉球王国のグスク及び関連遺産群

登録基準(2)(3)(6)
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

  「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産

資産名所 所在地
説 明
今帰仁城(なきじんじょう)跡 今帰仁(なきじん)村

1429年までおよそ100年続いた三山鼎立時の北山王統の居城でした。三山は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配したため三山鼎立の時代と言われています。1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志によって滅ぼされました。落城後は、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁グスクに設置し、1422年以後監守の居城として利用されました。

 

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座喜味城跡(ざきみじょう) 読谷村(よみたんそん)

中山軍の今帰仁城攻略に参加した護佐丸によって15世紀前期に築かれたグスクです。護佐丸は当初、座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していましたが、1416年(1422年の説もある)中山の尚巴志の今帰仁城攻略に参戦し、その直後、首里城より眺望可能な丘陵上に築城したといわれています。北山が滅びた後も沖縄本島西海岸一帯に残存していた旧北山勢力を監視するという役目を担っていました。

 

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中城城跡(なかぐすくじょう) 中城村、北中城村

勝連城主である阿麻和利を牽制するために、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が、勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築し、完成させた城(グスク)です。護佐丸滅亡後、中城城は王府の直轄地となり、琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たしました。

 

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勝連城(かつれんじょう)跡 うるま市

海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利が居城したとして有名な勝連城の築城は13~14世紀頃、眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されています。城主の阿麻和利は、1458年に中城城の護佐丸を滅ぼした後、反旗を翻し、国王の居城である首里城を攻めますが、逆に滅ぼされてしまいました。

 

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首里城跡 那覇市

尚・巴志王が北山・中山・南山の三山を統一し琉球王朝が成立した後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たしました。首里城が造られた年代は明らかではありませんが、これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半のものであることが判明しています。 
首里城は沖縄戦を含め4度焼失しています。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなっていましたが、大学移転後、1715年から1945年までの姿を基に復元事業が推進され2019年1月に完成。しかし2011年10月31日に5度目の焼失となりました。
ただ、世界遺産に登録されているのは首里城跡となっています。つまり、本殿の下の「遺構」、石積みの部分に世界遺産の価値が認められているのであって、地上の建物の焼失をもって世界遺産としての価値を失ったことにはなりません。

 

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玉陵(たまうどぅん) 那覇市

国王が祖先崇拝信仰を国内統治に利用するために、1501年頃尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となったと言われています。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となり、東室には洗骨後の王と王妃を安置、西室は王族など限られた家族が葬られました。

 

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識名園(しきなえん) 那覇市

琉球王家最大の別邸の庭園として、国王一家の保養や外国使臣の接待などに利用されました。1799年につくられ、王族の保養の場としてだけなく、中国皇帝の使者である冊封使を饗応する場所としても利用されるなど、国の外交面において重要な役割を果たしました。第二次世界大戦で大きな被害を受けましたが、遺構調査に基づき復元整備されました。

 

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園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん) 那覇市

1519年に創建された日本、中国の両様式を取り入れた琉球独特の石造の門で、出入り口として人が通る門ではなく、王家の拝所として使用されました。木の扉以外は琉球石灰岩で作られています。この石門も第二次世界対大戦で破壊されましたが、復旧作業により再建されたものです。

 

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斎場御嶽 知念村

「御嶽」とは琉球の信仰における祭祀などを行う施設で「斎場御嶽」は、王国最高の御嶽とされ、中央集権的な王権を信仰面、精神面から支える国家的な祭祀の場として重要な役割を果たしました。 御嶽の創設年は定かではありませんが、15世紀前半には国王がこの御嶽に巡幸していたようです。 戦前までは、男子禁制であった聖地ですが、現在では多くの人が参拝に訪れています。

 

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琉球は、1429年に最初の王が誕生してから、1879年明治政府によって沖縄県が設置されるまで琉球諸島を中心に栄えた王国でした。その特色を如実に反映している文化遺産が城(グスク)です。

琉球王家最大の別邸「識名園(しきなえん)」

識名園とは

1799年に造営された琉球王家最大の別邸です。1941年、国の名勝に指定されましたが、1945年第二次世界大戦で甚大な被害を被り、1976年に再指定されました。2000年には国の特別名勝に指定され、日本庭園文化において琉球地方で確立した独自の庭園デザインを示す貴重な事例として「設計された文化的景観」に該当するとして同年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとしてユネスコの世界遺産に登録されました。

1975年から1996年まで、遺構調査に基づいた綿密な修復工事が行われました。

識名園(しきなえん)が果たした役割

王家別邸の林泉庭園として1799年に築庭され、首里城の南にあることから南苑ともよばれました。王族の保養の場としてだけなく、中国皇帝の使者である冊封使を饗応する場所としても利用され、国の外交面において重要な役割を果たしました。

識名園の建造物

庭の地割には17~18世紀の日本庭園の影響が、池の建物には中国の影響がそれぞれ伺えますが、全体的には琉球独自の構成や意匠を主体としています。池を中心とする廻遊式の庭園で、池の周囲に御殿・築山・花園が置かれ、池には小島が2つあり、中国式のアーチ型の橋が架かっています。小島のひとつには中国風の六角堂が建てられています。池を廻遊する園路には高低差がつけられ視野に変化を付ける工夫が施されています。

正門

王族や中国皇帝の命をうけた冊封使はこの門から出入りしていました。屋門(ヤージョウ)と呼ばれる瓦屋根をのせた門構えとなっていて、当時は非常に格式の高い屋敷にのみ許されていました。

番屋

番人の詰所でした。

育徳泉

池の北岸西部にある識名園の池の水源のひとつで、冊封正使・趙文楷の筆になる二つの石碑が建っています。ここに生える淡水産の紅藻類「シマチスジノリ」は国の天然記念物です。

御殿

当時の王国の上流階級にだけ許された赤瓦葺の木造平屋建てで、軒などに琉球地方独特の民家風の趣が取り入れられています。御殿には15の部屋があり、雨や湿気に強い槙の木で作られています。

池/六角堂

識名園の池は「心」の字を模した形をしていて、「心字池」と呼ばれます。池の小島に六角形のあずまやが建てられています。中国風の建築で、屋根の形や瓦を黒く色付けているところからその様子がうかがえます。

中国風の石橋

池の中にある小島に大小2つの石橋があり、ともに橋の中央が高くなったアーチ形の中国風のデザインとなっています。

識名園(しきなえん)の見学について

住所
〒902-0072 沖縄県那覇市字真地421-7

Google マップ

 電話
098-855-5936
観覧時間
4月1日~9月30日 午前9時~午後6時(入場締め切り 午後5時30分)
10月1日~3月31日 午前9時~午後5時30(入場締め切り 午後5時)
休園日
毎週水曜日
(その日が休日又は「慰霊の日」(6月23日)のときは、その翌日)
観覧料
大人:400円(団体320円)
小人(中学生以下):200円(団体160円) 
※団体扱いは20名以上。
※小学校就学未満かつ保護者同伴時の場合無料。

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

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写真AC様より使わせていただきました

首里城歓会門と守礼門との間にあり、国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君(きこえおおきみ)の最高神女(のろ)即位式の時も、まず最初に拝礼したといわれ、いわば国家の聖地で、形は門になっていますが人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」ともいうべき場所です。八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造したものと伝えられています。中央に掲げられている扁額から第二尚氏王統の尚真王の時代、1519 年に築造されたことが分かります。

扁額には「首里の王おぎやかもいがなし御代にたて申候、正徳十四年己卯十一月二十八日」と書かれています。このおぎやかもいというのが尚真王の神号*1です。

1933年1月23日旧国宝に指定されましたが、沖縄戦の戦禍によって王城などとともに一部が破壊し、指定解除されました。その後、1957年に復元され、さらにその後解体修理し1986年に完成しました。園比屋武御嶽石門は1972年にあらためて国の重要文化財に指定され、2000年11月首里城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

施設情報

【住所】
〒903-0816 沖縄県那覇市首里真和志1-7 付近 首里城公園内
【TEL】】
098-917-3501
【営業時間】
24時間見学可能
【料金】
入場無料

園比屋武御嶽石門の構造

日本と中国の木造建築に見られる様式をすべて石造り(琉球石灰岩)で表現しています。軒は石造りながら垂木を張り出し、屋根は木造板葺きを表しています。屋根の両妻から軒先までは日本の寺院に良く見かける曲線を持つ和風、棟飾りは火焔宝珠(かえんほうじゅ)やシャチをかたどった鴟尾(しび)が配されるなど中国的要素も兼ね備ええています。アーチ門も一見すると石をかみ合わせた構造に見えますが、石の弓型状に削った手の込んだものです。さらに、両側の石しょうが中央に向かってすぼまり、床は中央で盛り上がって、目の錯覚を利用した遠近法が用いられています。

王統ゆかりの神を祀る森

石門の背後には自然に生まれた、御嶽(うたき)と呼ばれる聖地が広がります。琉球の祈りのかたちは、日本とは違い、人々にとって神聖な場所は寺や神社ではなく、石や木に宿るとされます。この御嶽には、王家ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を分霊してまつっています。人々は石門ではなくこの御嶽に祈りを捧げています。

 

 

 

 

*1:王に即位するときに神女から神の託宣として授けられる名前の事