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日本の世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」

世界遺産として登録された「紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)」

2000年、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産暫定国内リストへの記載が決定し、2001年にユネスコの世界遺産暫定リストへの記載が決定しました。2004年7月7日に世界遺産(文化遺産)に記載され、日本では12番目の世界遺産となりました。2016年10月24日、パリのユネスコ本部で開催された世界遺産委員会臨時会合で、軽微な変更提案が承認され、参詣道の距離が当初の登録時から40.1km拡張され、総延長347.7kmとなりました。和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野参詣道)が登録対象となっています。

世界遺産登録の理由

顕著な普遍的価値の評価基準10項目のうち(2)(3)(4)(6)に該当し、「文化遺産」に登録されています。

世界遺産登録基準(2)(3)(4)(6)

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用です)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

具体的には、
(2) 紀伊山地の文化的景観を形成する記念碑と遺跡は、神道と仏教のたぐいまれな融合であり、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を例証する。

(3) 紀伊山地の神社と仏教寺院は、それらに関連する宗教儀式とともに、1000年以上にわたる日本の宗教文化の発展に関するひときわ優れた証拠性を有する。
(4) 紀伊山地は神社・寺院建築のたぐいまれな形式の創造の素地となり、それらは日本の紀伊山地以外の寺院・神社建築に重要な影響を与えた。
(6) と同時に、紀伊山地の遺跡と森林景観は、過去1200年以上にわたる聖山の持続的で並外れて記録に残されている伝統を反映している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

紀伊山地は人が分け入ることが困難な山岳地であることから、神仏が宿る場所とみなされ、崇拝されてきました。三霊場「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」は、自然崇拝に根差した「神道」と、中国大陸や朝鮮半島から伝来した「仏教」の融合によって「神道」「真言密教」「修験道」と独自の発展をし、ともに参詣道が形成・整備され、それらが良好な状態で残されていることと、信仰の文化が今も生き続けていることが評価されました。

「紀伊山地の霊場と参詣道」の資産の内容

「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する三霊場は「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」で「大峯奥駈道」「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」「高野山町石道」の参詣道が含まれ、それぞれの信仰の特徴を表す複数の記念工作物、遺跡、文化的景観が含まれます。

和歌山・奈良・三重の三県にまたがる資産の面積495.3haと、さらにその周囲に保護のために設けられた緩衝地帯11,370haを合わせて11,865.3haには、国宝4件、重要文化財23件の建造物をはじめ、史跡7件、史跡・名勝1件、名勝1件、名勝・天然記念物1件、天然記念物4件、合計41件の文化財が含まれます。

紀伊山地は自然信仰の精神を育んだ地で、6世紀の仏教伝来以降、真言密教を始めとする山岳修行の場となりました。特に修験道は、大峰山系の山岳地帯が発祥の地とされています。また、9~10世紀の「神仏習合」思想*1、10~11世紀頃の「末法思想」*2、死後に阿弥陀仏の居所である極楽浄土に往生することを願う「浄土宗」の教えなどの信仰がこの地を神聖化しているようです。深い山々が南の海に迫るという独特の地形や、両者が織り成す対照的な景観構成などの地形及び気候、植生などの自然環境に根ざして育まれた多様な信仰の形態を背景として、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」が形成されました。

霊場「吉野・大峯(よしの・おおみね)」の構成資産

紀伊山地中央の北部から中部の大峰山脈の山岳地帯にあり、三霊場の中で最も北に位置しています。北部を「吉野」、南部を「大峯」と呼び、10世紀中頃には、日本第一の霊山として中国にもその名が伝わるほどに、崇敬されるようになっていました。「吉野」は7~8世紀の都であった奈良盆地の南に位置し、古代から山岳信仰の対象となっていました。修験道の開祖とされる「役行者*3」縁の聖地として重視され、今もなお全国から修行のため多くの修験者が訪れています。神道と修験道に関連する記念工作物や遺跡が数多く残されました。「大峯」は、吉野と「熊野三山」との間を結ぶ大峰山脈の総称で、山岳での実践行を重んじる修験道では山での苦行の有名な舞台となっていました。

吉野山、吉野水分神社、金峯神社、金峯山寺、吉水神社、大峰山寺で構成され、大峰奥駈道で熊野と結ばれています。

吉野山(よしのやま)

吉野山とは、大峯連山の北の端から、南に約8kmつづく尾根一帯を指し、神社や修験道の寺院、宿坊、商店などが立ち並び、それらの周囲には桜の林が広範囲に分布しています。これは、霊木である桜を献木するという宗教行為によって植え続けられてきたもので、古来より日本一の桜の名所として知られ、多くの和歌や絵画にも表現され、信仰や芸術に関連する典型的な文化的景観を形成しています。
1924年12月9日、史跡・名勝に指定されています。

吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ) -重要文化財

古代における分水嶺に対する信仰を祭祀の起源とする神社で、12世紀には神仏習合により、神社の祭神が地蔵菩薩の垂迹*4とされてきました。
吉野水分神社社殿は本殿・拝殿・弊殿・楼門・回廊からなり、いずれも1901年3月27日、重要文化財(建造物)に指定されています。
現在の社殿は、1604年に豊臣秀頼が再建したもので、中でも本殿は再建当時(桃山時代)流行した装飾性豊かな建築の典型です。

金峯神社(きんぷじんじゃ)

古代における金をはじめとする鉱物に対する信仰を祭祀の起源とする神社で、吉野山の地主神金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀ります。
修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、通過すべき4つの門が設定されていますが、そのうちの金峯山寺銅鳥居を「発心門」にあたる第一の門とし、「等覚門」「妙覚門」が山上ヶ岳に置かれ、金峯神社の社前に「修行門」にあたる鳥居が建てられています。

金峯山寺(きんぷせんじ)

金峯山寺の本堂は「山下蔵王堂」と呼ばれ、修験道の中心寺院として、信仰を集めてきました。約1300年前に役行者が開いたとされ、修験道の霊場として栄えました。敷地は東西約70m南北約120mで、本堂、二王門などの記念工作物が現存し、二王門、中門、大塔、食堂、回廊などの地下遺構も良好に残る考古学的な遺跡でもあります。
金峯山寺本堂(蔵王堂) -国宝
現在の建物は1592年に再建されました。本尊である蔵王権現の虚像三体を安置する高さ34mの東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築です。毎年4月には伝統儀式「花供懺法会」が盛大に行われています。
1902年4月17日、重要文化財に指定され、1953年11月14日、国宝に指定されています。
金峯山寺仁王門 -国宝
金峯山寺蔵王堂の北に北面して建つ正門で、現在の建物は1456年に再建されたもの。高さ20.3mに及び、細部意匠にも優れ、中世の和様二重門の代表例の一つとして貴重な存在です。
1906年4月14日、重要文化財に指定され、1953年11月14日、国宝に指定されています。
金峯山寺銅鳥居 -重要文化財
本堂から300m下がったところに立ち、現在の建物は1348年に焼失したあと、室町時代に再建されたものです。修験道の修行の入り口(発心門)として重視されてきた銅製の大鳥居です。
1942年12月22日、重要文化財に指定されています。

吉水神社(よしみずじんじゃ)

もとは吉水院という、金峯山寺に付属した修験宗の滞在所・宿泊所として利用され、明治初期の神仏分離令発令後、後醍醐天皇などを祀る神社となりました。
吉水神社書院 -重要文化財
前半修行者の滞在所兼宿泊所として用いられた書院造の建物で、15世紀前半に建立された部分と16世紀末に増築された部分からなります。「書院造」といわれる書院建築では、初期の例として貴重なものとなっています。
1915年3月26日、重要文化財に指定されています。

大峰山寺(おおみねさんじ)

奈良県南部の大峰山脈北部の主峰で標高1719.2mの山上ヶ岳の頂上に建立された修験道の寺院です。役行者の誓願に応じて蔵王権現が出現したと伝えられる霊地に建立され、「山上蔵王堂」とも呼ばれる本堂を中心として、蔵王権現の湧出岩や断崖上の行場、経塚遺跡などがあり、修験道の聖地の中で最も重要な場所とされています。また、行者が通過すべき4つの門のうちの第3番目に当たる「等覚門」や第4番目に当たる「妙覚門」、石碑・梵鐘・灯籠などが存在しています。
大峰山寺本堂 -重要文化財

16世紀後半に焼失、17世紀後半に再建に着手し、1703年完成しました。峻険な山頂に建つものとしては他に類例がなく、1983年から86年に修理した際の発掘調査では宗教儀式の遺構や祭器、仏像、鏡、経巻などが出土しています。

1973年6月2日、重要文化財に指定されています。

霊場「熊野三山(くまのさんざん)」の構成資産

紀伊半島南部に位置し、「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二寺と「那知大滝」「那知原始林」からなり、「熊野参詣道中辺路」によって相互に結ばれています。古くから神々が宿る場所として崇拝され、中国大陸や朝鮮半島から伝来した仏教と融合し、独自の発展を遂げました。三社はそれぞれ個別の自然崇拝に始まり、お互いに他の二社の祭神を祀るようになり「熊野三所権現」と呼ばれるようになりました。平安時代には「末法思想」が流行り「浄土信仰」の考え方が広まり、熊野三山は「浄土への入り口」とされ、浄土へお参りし、帰ってくるということで、死と再生を意味し、「よみがえりの聖地」として信仰を集めました。霊場を構成する社寺には神道、仏教、修験道、神仏習合に関連する記念工作物や遺跡が遺され、信仰の起源となった自然の景物を含む周辺地域と共に一体の文化的景観を構成しています。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)

かつては「熊野坐神社」とよばれ、熊野川の中州に鎮座していましたが、1889年の熊野川水害時に羅災し、流失を免れた主要社殿3棟を1891年に現在の場所に移築し再建しました。 2011年、紀伊半島大水害により、再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けましが、2014年には瑞鳳殿が再建されています。熊野三山の1つとして熊野十二所権現を祀っています。

熊野本宮大社社殿 -重要文化財

水害以前、1801~1807年再建時の部材が大部分を占め、熊野独特の建築様式を保つ神社建築群となっています。11世紀の参詣者の日記や1299年に描かれた絵画によって確認できる伝統的な形態を保持しています。

1995年12月26日、重要文化財に指定されています。

熊野本宮大社旧社地大斎原

熊野本宮大社の旧社地及び付属寺院の遺跡で、熊野川の中洲にあり、19世紀の切石積の基壇が遺され、その周囲の森林はかつて塔や護摩堂といった仏教施設が置かれていたところで、神仏習合の遺跡として貴重なものとなっています。

備崎経塚群

旧社地大斎原から熊野川を南に渡った対岸の備崎にあり、岸の丘陵にある経塚の群集遺跡です。
発掘調査により数多くの経塚が分布することが確認されています。19世紀には1121年の刻銘のある、わが国最大の陶製外容器が出土しています。

熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)

現在の社殿は1883年に炎上し、その後1951年再建された境内を中心に、背後の「権現山」と熊野川に浮かぶ「御船島」及び「御旅所」を含んで指定されています。神倉山中腹には、祭神が降臨したとして信仰される巨岩(ゴトビキ岩)を御神体とする「神倉神社」があります。ゴトビキ岩は山の斜面にヒキガエルの姿で鎮座する巨岩で、その周辺からは、3世紀の銅鐸をはじめ、12世紀を中心とする経塚が多数発見されています。また、この神倉神社で熾した神火を松明に移し山を駈け下る「熊野御燈祭」は原始信仰を受け継ぐ祭礼として、和歌山県の無形民俗文化財に指定されています。 

熊野速玉神社のナギ

境内には推定樹齢800年を誇る古木で、神木とされる天然記念物の「ナギの木」が壮大な樹冠を広げています。これは、1159年の社殿再建の際に平重盛が植えたものと伝えられています。 基部の幹周りが約5.45m、目通りの幹周りが約4.45m、高さが約 17.6mの老巨木である。樹幹の表面には縦溝がみられ、中軸をなす主幹がないことなどから、1株ではなく数株が合着して現在見る姿になったと考えられている。

熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)

那智山の中腹標高約500mの地点にあり、那智大滝に対する自然崇拝を起源とする神社です。熊野三山を構成する三神社の一つで、熊野十二所権現を祀るほか、那智大滝を神格化した「飛瀧権現」を併せて祀っているため、十三所権現とも呼ばれています。

熊野那智大社社殿 -重要文化財

主祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)です。

1853に再建されたもので、熊野独特の建築様式を保つ神社建築群です。1299年に描かれた絵画によると、再建された社殿は以前のものと形式がほとんど変わっていないことが分かっています。

社殿は熊野本宮大社や熊野速玉大社のように横一列に並ばず、三所権現をはじめとする主要五社殿と八社殿及び御県彦社が矩折して配置され、他の二山と違い、御瀧の神様を併せ祀っているため一柱多く神様を奉斎しています。

1995年12月26日、重要文化財に指定されています。

青岸渡寺(せいがんとじ)

1868年以前は、那智の滝を中心にした那智の「如意輪堂」として熊野那智大社と一体の寺院として発展しましたが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離しました。

約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路である「西国三十三所観音霊場巡礼」の第一番札所であり、今も観音信仰の中心的霊場として多くの巡礼者が参詣しています。

青岸渡寺本堂 -重要文化財

4世紀ごろ、インドの僧が開山し、豊臣秀吉が1590年に再建した素木造りの建築で、桃山時代の特徴を色濃く残しています。

1904年2月18日、重要文化財に指定されています。

青岸渡寺宝篋印塔 -重要文化財

本堂の北にあり、標高4.3mの、蓮花付きの台座上に台石を置き、台石には1322年に尼僧が願主となって造立した旨の銘文が刻まれています。

1953年3月31日、重要文化財に指定されています。

那智大滝(なちのおおたき)

那智大滝は「一の滝」とも呼ばれ、那智山の森林を水源とする高さ133m、幅13mの一段の滝としては日本一の落差を誇る滝です。銚子口の岩盤に3つの切れ目があって、三つの落口から流れ落ちるところから「三筋の滝」ともよばれています。那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地で、熊野那智大社、青岸渡寺の信仰の原点であり、また信仰の対象そのものでもありました。

那智原始林(なちげんしりん)

那智大滝の東側一帯に広がる温帯性と暖温帯性の植物が入り混じる約33.5haの常緑広葉樹林(照葉樹林)で、古くから熊野那智大社の神域として保護され、滝と一体となり、自然信仰に関連する文化的景観の典型です。

補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

那智大滝を約6㎞下った、2本の参詣道が合流する海岸近くに位置し、観音浄土である「補陀落山」に渡海する補陀落渡海信仰の拠点であった寺院です。

観音菩薩が降臨する霊場を補陀落といい、そこではすべての者の願いを聞き、救いの手を差し伸べるとされていました。補陀落山はインド南海岸の伝説上の山とされていますが、観音信仰によって補陀落に擬された場所は各地に存在し、日本では日光山や那智山などがその例となっています。那智山は補陀落山の東門とされ、平安前期から江戸中期にかけて観音浄土への往生を願って海へ入水する補陀落渡海が行われました。慶竜(けいりゅう)上人が貞観10年(868)に渡海したのが最も古いとされ、その後18世紀初頭まで渡海が続いていたといいます。『熊野年代記』によれば、この間20名の僧が渡海しているとのことです。渡海者は柩船の構造をした渡海船に乗り、外に出られないように扉をくぎでふさがれ、30日分の食糧と油を積み、呪文を唱えながら伴舟に曳かれて海へと旅立ったといわれています。これは海上他界観に基づく水葬と、熊野の修験道における捨身行が観音信仰に結びついたものです。

霊場「高野山(こうやさん)」の構成資産

標高800メートルの山上盆地に、816年、空海が真言密教の道場として「金剛峯寺」を創建し、信仰を集めてきました。現在も金剛峯寺と117の寺院が密集し、山岳宗教都市としての文化的景観を作り出しています。

「金剛峯寺」をはじめ、「慈尊院」「丹生官省符神社」「丹生都比売神社」からなり、それぞれが参詣道である「高野山町石道」で結ばれています。

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)

古来から高野山を含む紀伊山地北西部一帯の鎮守社として知られ、高野山金剛峯寺と密接な関係を保ってきた神社です。
仏教関連の堂舎多数が存在しましたが、明治初年の神仏分離令により仏教関連施設は撤去され現在は神道関係施設だけが残されています。ただ、鳥居は両部鳥居となっていて、これは神仏習合の神社に多くみられ、その名残ともいえるでしょう。

丹生都比売神社本殿 -重要文化財

高野山地域の地主神及び他地域から勧請された神々を祀る神殿で、第一殿から第四殿が左右に並んで社殿を構えています。2014年の「平成のご造営」の修復工事で本殿の塗装を江戸初期の配色に戻しています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

丹生都比売神社楼門 -重要文化財

神殿の前の大規模な木造楼門で、室町時代に建立された入母屋造・檜皮葺きの堂々とした楼門です。一般のご参拝はこの楼門前からとなります。

1908年4月23日、重要文化財に指定されています。

金剛峰寺(こんごうぶじ)

総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体がお寺で、東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広さを有しています。「伽藍地区」「大門地区」「金剛三昧院地区」「徳川家霊台地区」「本山地区」「奥院地区」の6つの地区からなり、真言密教の根本道場として信仰を集めてきました。

<伽藍(がらん)地区>

壇上伽藍とも呼ばれ、空海が高野山を開創する際に最初に着手した場所です。高野山の中心となる地区で、もともと南北中心線上に中門と金堂を配し、その後方に東西に並んで東に胎蔵界を表す根本大塔を、西に金剛界を表す西塔を置くという真言密教の教義を現した独特の伽藍配置となっていました。

金剛峯寺山王院本殿 -重要文化財

髙野山としては、いちばん大切な鎭守であって、丹生明神社、髙野明神社、総社の三棟からなり、今の建物は1521年の火災後に再建されたものです。本殿は向って右から「丹生明神社(一の宮)」「高野明神社(二の宮)」そして左端に「総社(三の宮)」が並んで建っています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

金剛峯寺不動堂 -国宝

1198年、鳥羽上皇の皇女八条女院の発願により創建、14世紀前半に建て直されました。鎌倉時代の和様建築で、平安期住宅様式を仏堂建築に応用したもので、本尊は、不動明王、脇侍は運慶作の八大童子です。

不動堂は1952年3月29日、国宝に指定されています。

<奥院(おくのいん)地区>

金剛峯寺を創建した僧空海が、生前自ら墓所と定めた場所を中心として、転軸・摩尼・楊柳の三山に囲まれた広大な集合墓地が営まれている地区です。空海が「即身成仏」を果たし、今もなお生き続けていると信じられている聖地で、全国各地から各階層の人々が継続的に建立した大小の石造五輪塔は20万基以上ともいわれ、現在も墓碑の建立が続いています。これら墓碑群と禁伐のスギ林が、深遠な文化的景観を形成しています。

金剛峯寺奥院経蔵 -重要文化財

空海の墓所である弘法大師御廟の東にあり、石田三成が1599年に母の菩提のため建立し、「高麗版一切経」が納められました。

1922年4月13日、重要文化財に指定されています。

佐竹義重霊屋 -重要文化財

常陸国佐竹藩主であった佐竹義重の霊屋(たまや)で、屋根は切妻造、檜皮葺きで、外面は、木造の卒塔婆型の角材で、正面、側面、背面と47本建て並べて壁にしており、極めて珍しい霊屋となっています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

松平秀康及び同母霊屋 -重要文化財

徳川家康の側室で、「お万の方」と、その子、秀康の霊屋で、秀康霊屋内には宝篋印塔五基が、母の霊屋内には宝篋印塔二基と五輪塔が納められています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

上杉謙信霊屋 -重要文化財

上杉謙信、景勝の木造霊屋です。1966年、解体修理が施され、屋根を檜皮葺に復旧しました。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

<大門(だいもん)地区>

高野山全体への入口になる総門である大門が建つ地区で伽藍地区の西側に位置します。

金剛峯寺大門 -重要文化財

高さ25.8m金剛峯寺の正門で、日本国内で最大級の木造二重門となっています。12世紀の創建以来焼失と再建を繰り返し、現在の建物は1705年再建されたものです。その後修理が行われ、1986年には、全面解体修理が施され、白木の状態であった表面を丹塗りとし、昔の状態に戻されました。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

<金剛三昧院(こんごうさんまいいん)地区>

金剛三昧院を中心とする地区で、金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫の源頼朝と子実朝の菩提を弔うため建立しました。

高野山の霊場化が、有力な貴族や武家による山上祈願所の寄進や建立によっても促進された事を示す事例として代表的なものです。

金剛三昧院多宝塔 -国宝

多宝塔とは、仏教建築の仏塔のひとつです。多宝塔としては、鎌倉初期の建立とされる滋賀県大津市の石山寺の多宝塔についで古く、多宝塔発祥の地、高野山では最古の物です。多宝塔の内部は須弥壇(しゅみだん)と言われる壇が設けられており、その前には仏師運慶作と伝えられる五智如来(ごちにょらい)像が安置されています。

1952年11月22日、国宝に指定されています。

金剛三昧院経蔵 -重要文化財

経典の収蔵庫として建てられたもので、建築様式は校倉造りで、鎌倉時代初期の校倉造りの建立物としては現存状態が非常によく、この時代のものは他に例が少なく価値のあるものとなっています。

1922年4月13日、重要文化財に指定されています。

金剛三昧院四所明神社本殿 -重要文化財

金剛三昧院の境内に鎮守として祀られている神社で、 四ヶ所の明神様をお祭りしているので、四所明神と言われています。高野山上の奥の院と麓の天野社の神仏習合の宗教形態の典型を示しています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

金剛三昧院客殿及び台所 -重要文化財

参詣者の応接及び宿泊を目的に建てられた木造建築で、桁行34.3メートル、梁間18.9メートル、一重、入母屋造で屋根は檜皮葺きとなっています。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

<徳川家霊台(とくがわけれいだい)地区>

徳川幕府の初代将軍家康と2代将軍秀忠の霊屋を中心とする地域

金剛峯寺徳川家霊台 -重要文化財

江戸幕府初代将軍徳川家康(東照宮霊屋)と2代将軍秀忠(台徳院霊屋)の装飾華麗な木造霊屋が2棟並び、それぞれが透塀で囲まれ、正面に唐門があります。

1926年4月19日指定、重要文化財に指定されています。

<本山(ほんざん)地区>

金剛峯寺は1869年に青巌寺と興山寺を一本化したもので、今では高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の本坊が置かれ、宗務上の中心地となっています。現存する建物の多くは1862年に再建された青巌寺のもので、大主殿、奥書院を中心に、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、山門などが立ち並ぶ高野山上で最も規模の大きな木造建築群を構成しています。

慈尊院(じそんいん)

慈尊院は、816年、弘法大師が創建した寺で、高野山参詣の表参道の玄関口として伽藍を創建し、参詣者が一時滞在する場所ともなっていました。女人高野とも呼ばれ、女性の参拝の多い寺院です。

慈尊院弥勒堂

本尊である弥勒仏坐像を安置する本堂です。高野山が女人禁制だったことから、訪れた空海の母もここで逗留し、母の没後に弥勒菩薩を安置し祀ったということです。鎌倉時代後期の建築で、方三間(6.39m)、宝形造、桧皮葺の建物です。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

丹正官省符神社(にうかんしょうふじんじゃ)

金剛峯寺の荘園であった官省符荘の鎮守として丹生明神、高野明神の2明神を祀り、後に厳島明神・気比明神の2神を合祀し「四所明神」を祀るようになりました。慈尊院とともに空海が創建したもので、境内がつながっています。

丹生官省符神社本殿 -重要文化財

地主神及び地方から勧請された神々を祀る神殿で、室町時代後期の1517年再建の2棟と、1541年再建の1棟、社殿3棟からなります。

1965年5月29日、重要文化財に指定されています。

参詣道(さんけいみち)の構成資産

三つの霊場に至る参詣道ならびに三つの霊場を相互に結ぶ参詣道で、大峰奥駈道、熊野参詣道、高野参詣道からなり、保存状態の良い部分が国の史跡に指定されています。道の大部分は幅1m前後と狭く、石畳や階段となっている部分もありますが、多くは山中の土の道で、沿道の山岳や森林と一体となった文化的景観を形成しています。

大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)

大峯奥駈道は、吉野・大峯と熊野三山を結ぶ修験者の修行の道で、標高2,000m級の山々が連なる大峰山脈の主稜線を踏破するように拓かれ、全行程約170kmに及び、修験道の最も重要な修行の場となっています。このうち約86.9kmが世界遺産として登録されています。 修験道の祖とされる役行者が8世紀初めに開いたとされ、修験道の最も重要な修行の場となっていた大峯奥駈道は、道の途中の行場で「宿」と呼ばれる信仰上の拠点が約120カ所設けられていましたが、17世紀になると75ヵ所の「靡」に整理されました。修験者にはこの奥駈が義務付けられ、回数を重ねることが重要とされているため、今も修験者の団体が毎年奥駈を実施しています。

2002年12月19日、史跡に指定されています。

仏経嶽原始林

大峰山脈の最高峰である仏経嶽を中心に約3㎞の尾根上にシラビソ林が亜高山性の常緑針葉樹林を形成しています。そのうち、約9haのシラビソ林が国の天然記念物に指定されています。

オオヤマレンゲ自生地

モクレン科の落葉低木で、八経ヶ岳を中心に、シラビソ林の林床や林縁にオオヤマレンゲが大群落を形成していますが、最も密度の高い弥山から八経ヶ岳を経て明星ヶ岳との鞍部に至る約108haのエリアが天然記念物に指定されています。

玉置神社境内
大峰山脈の南端に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くにあります。この玉置神社の起源は、玉置山自体を神体とする古代の自然崇拝にあるとも考えられています。鎌倉時代から宿が設けられ修験道の聖地とされ、境内には本殿・摂社・末社・社務所・神楽殿・絵馬堂・御神輿殿・梵鐘や、杉の巨樹群が林立しています。
玉置神社社務所及び台所 -重要文化財

1804年、玉置神社の別当寺・高牟婁院の主殿及び庫裏として建立されたもので、 神仏分離後は社務所・台所および参籠所(さんろうじょ)として使用されています。

1988年1月13日に重要文化財となりました。

熊野参詣道(くまのさんけいみち)

霊場「熊野三山」への参詣のために中世・近世を中心に利用された道で、時代と地域によって「熊野参詣道」「熊野古道」「熊野御幸道」など様々な名称で呼ばれてきました。「熊野三山」は、京都からも日本の各地からも遠い紀伊半島南東部に位置するため、参詣者のそれぞれの出発点に応じて複数の経路がありますが、大きく「紀伊路」「伊勢路」「小辺路」の3つの経路に分類されます。「紀伊路」は途中で紀伊半島を横断して山中を通る「中辺路」と、海岸沿いを通る「大辺路」の二本に分岐します。この、「中辺路」「大辺路」「小辺路」「 伊勢路」の4 ルートが世界遺産に登録されています。

<熊野参詣道中辺路>

京都から大阪・和歌山を経て田辺に至る紀伊路のうち、田辺から山中に分け入り熊野本宮に向かう、最も頻繁に使われた参詣道です。参詣道の途中に熊野神の御子神を祀った王子もしくはその遺跡が点在するのが最大の特徴で、21か所の王子と13ヶ所の茶屋跡などの遺跡が登録資産となっています。

湯峯温泉

約1800年前に発見されたという日本最古の温泉で、参詣者が参詣前に心身を温泉で清める「湯垢離場」として重要な役割を担ってきました。近くには、古くから参詣者のために道程の目安として建てられた熊野信仰の小さな神社「王子」社の一つ、「湯峯王子」が設けられています。

熊野川

「熊野本宮大社」から下流の河口部に位置する「熊野速玉大社」までの40㎞が登録資産となっています。中辺路を通り熊野三山を参詣する際、川舟で行き来することが多く、そのため「川の参詣道」として登録されています。

<熊野参詣道大辺路>

紀伊路のうち、田辺から海岸線に沿って南下し、熊野三山に至る約120㎞の道で、中辺路と比べて距離が長く、奥駈をする修験者や西国巡礼を三十三回行う「三十三度行者」と呼ばれる専門の宗教者が辿る道でした。ただし、江戸時代からは、信仰と観光を兼ねた人々の利用が記録されています。本来の姿が良好に保たれている範囲は限られていますが、美しい文化的景観に恵まれた道です。

<熊野参詣道伊勢路>

紀伊半島東岸を通り、伊勢神宮から熊野三山を結ぶ道で総距離は約160km。険阻な山坂の多い道で、随所に石畳が遺されています。伊勢本街道からの分岐点・田丸を起点とし、途中の「花の窟」から海岸沿いに七里御浜を通り熊野速玉大社に至る「七里御浜道」と、内陸部を熊野本宮大社へ向かう「本宮道」に分かれます。

七里御浜

「浜街道」とも呼ばれ、当初は熊野市木本から新宮市までの砂礫の海岸線「七里御浜」沿いを行く経路でしたが、17世紀には防風林が植えられてからは防風林のなかを歩く経路になりましたが、19世紀後半になっても海浜を歩いて向かう旅人もいたようです。沿道には景勝の地として参詣者に知られた「鬼ヶ城」や「獅子岩」があります。

花の窟

日本書紀にも登場し、日本最古の神社と伝えられています。社殿がなく、ご神体が伊勢路の分岐点に位置する巨岩で、太古の自然崇拝の神社です。

熊野の鬼ヶ城附獅子巖

石英粗面岩の岩壁が浪や風の浸食により生み出された伊勢路沿いにある景勝地で、熊野の鬼ヶ城は、数段にわたる階段状の洞窟になり、獅子巌は獅子のような形となっています。江戸時代に作成された旅行案内記には奇景として紹介されています。

<熊野参詣道小辺路>

紀伊半島中央部を南北に通り、高野山と熊野三山を最短距離で結ぶ参詣道で、熊野参詣道の中でも険しい経路の1つです。

高野参詣道

高野参詣道は、空海や、高野山への信仰のため人々が参詣に用いた道で、出発地点に応じて「高野七口」と呼ばれる複数の経路がありました。町石道、黒河道、京大坂道、小辺路、大峰道、有田・龍神道、相ノ浦道の七つの道を指し、町石道、三谷坂、京大坂道不動坂、黒河道の 4 ルートと女人道が世界遺産の参詣道の資産として登録されています。

高野参詣道 町石道

高野山参詣道のうち、空海が切り開き、その後最もよく使われた道で、沿道には一町(約109m)及び一里(三十六町・約4km)ごとに金剛峯寺の中心である壇上伽藍からの距離を刻んだ町石(石製道標)が建てられています。町石は、単なる道標ではなく、町石自体が一体の仏を表し、一町ごとに礼拝を重ねながら山上を目指した参詣の様子が伺えます。

高野参詣道 三谷坂

三谷坂は、丹生酒殿神社から丹生都比売神社に登る参道で、慈尊院を起点とする町石道よりも距離が短く、短時間での高野山への参詣が可能です。

高野参詣道 京大坂道不動坂

山麓の紀ノ川沿いから高野山へ向かう参詣道の中で、便利で安全、かつ早く登ることができるため、多くの参詣客で賑わいました。

高野参詣道 黒河道

江戸時代に交通の要衝であった橋本から高野山へ向かう最短経路で、山麓の紀ノ川沿いから女人道の子継峠に合流するまでの経路です。高低差が激しいため時間のかかるルートです。

高野参詣道 女人道

1872年まで高野山境内には女性は立ち入ることができませんでした。そのため外周に設けられた各女人堂を巡り山内を拝したことから、女人堂巡りの道が成立しました。女人道は女人堂巡りの道に加えて、高野山境内の外周にあたる奥院背後の高野三山頂上に祀られる菩薩像の巡拝道を含みます。

関連資料

 

*1:日本古来の神々は仏教の諸尊が姿を変えて現れたものとする日本固有の思想

*2:仏法が衰え世も末になるという思想

*3:えんのぎょうじゃ-修験道の開祖とされる人

*4:仏・菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れること