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日本で最初に世界遺産に登録された「法隆寺地域の仏教建造物」(1993年登録)~日本の世界遺産(文化遺産)

法隆寺地域の仏教建造物(奈良県)は、1993年12月、日本で最初に姫路城(兵庫県)とともに世界遺産(文化遺産)に登録されました。

世界遺産として登録されるにはいろいろな条件があり、それを証明することが求められます。そこで、世界遺産としての「法隆寺地域の仏教建造物」についてみてみたいと思います。

法隆寺地域の仏教建造物

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(3. 資産の内容a) 歴史)」引用で、文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(摘要)」引用です。

仏教は中国から朝鮮半島を経由して6世紀中頃に日本に伝わった。7世紀、法隆寺地域では、天皇の皇子・摂政であった聖徳太子が法隆寺・中宮寺を建立し、また、天皇一族が、太子の病気平癒を祈って法輪寺を、さらに太子の没後、その宮跡に法起寺を建てた。
 7世紀初頭に聖徳太子が創建した法隆寺はいったん670年に焼失する。その遺構は現在の法隆寺境内の地下に若草伽藍跡として残る。寺は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、場所を変更して、再建される。それが現存する法隆寺西院である。その建造物のうち、講堂のみは925年に焼失するが、990年にそれも再建される。
 西院と並んで現在の法隆寺の中枢部を構成している東院は、8世紀前半に聖徳太子の斑鳩宮跡に太子の霊を祀るために建設された伽藍である。
 法隆寺には西院と東院のほかにいくつかの子院がある。僧侶は古くは講堂周辺にある僧坊で共同で生活していたが、11世紀ごろから高僧とその弟子たちの集団がそれぞれ宗教活動を行う小寺院を設立し、そこで生活するようになる。それが子院である。いま法隆寺に残る子院の建造物の多くは16〜17世紀にかけて建設されたものである、そのころ、西院・東院とあわせて、ほぼ今日に見る法隆寺全体の構えができあがったのである。
 法隆寺は、古くは鎮護国家の寺として天皇家の保護を受け、さらに、12世紀ごろからは広く一般庶民の問に聖徳太子を尊崇する信仰がひろまり、太子創建の寺として多くの信者を集めて繁栄した。その維持修理には終始国家の厚い庇護があった。しかし、近代国家日本の出発である1868年の明治維新では、神道を重んじ、仏教を排斥する思想が尊重され、その趨勢のなかで法隆寺も衰えた。このため文化財の保護の必要性を認めた新政府は1897年に古社寺保存法を制定し、それによって新しく文化財の学術的な調査と保護の途が開かれた。その伝統は現在の文化財保護法に引継がれている。
 法起寺は聖徳太子の遺命によってその宮であった岡本宮跡にその子の山背大兄王が7世紀に建立したと伝える。しかし、16世紀末、兵乱によって焼失し、わずかに三重塔のみが残る。この三重塔も法隆寺の歴史的建造物と同じく文化財保護法の保護下にある。

「法隆寺地域の仏教建造物」は奈良県に所在する。この世界遺産は法隆寺と法起寺の2つの寺院における48棟の木造建造物から成る。法隆寺の面積は14.6ha、法起寺は0.7ha である。2つの寺院は面積570.7ha の緩衝地帯に囲まれている。
「法隆寺地域の仏教建造物」は、日本に仏教が伝来した直後に創建された日本最古の仏
教建造物であり、その後の寺院建築に多大なる影響を与えた。
資産内にある11棟は、7世紀後半から8世紀にかけて建立されたもので、現存する世界最古級の木造建築に類する。創建された法隆寺はいったん670年に焼失したが、その遺構は現在の法隆寺境内の地下に若草伽藍跡から現西院の南東に至って残る。再建は焼失のほぼ直後から始まり、8世紀初頭まで続いた。
建造物は中国の柱間構造を基にしており、これは入り組んだ肘木によって急勾配の屋根の重みを巨大な木造の支柱に分散させる軸組工法を改良したものである。エンタシスをもつ柱や雲形肘木を巧みに利用しているという点で注目に値する。
これらの木造建築の傑作は、中国の仏教建築及び伽藍配置が日本文化に取り入れられたことを示していることから、芸術史上において重要であるのみならず、建築時期が朝鮮半島を経由して仏教が中国から日本に伝来した時期と合うことから、宗教史上においても重要である。法隆寺は創建時から天皇家の保護を受け、さらに、12世紀頃より盛んになった聖徳太子を尊崇する信仰により、多くの信者を引きつけた。その結果、法隆寺は常に完璧な形で維持保存されてきた。 

世界遺産一覧表に記載する価値があることの証明

法隆寺地域の仏教建造物の登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、(i) (ii)  (iv) (vi)に該当します。

(i) 人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)  建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iv) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
 (vi)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。

(「日本ユネスコ協会連盟」からの引用となります)

「法隆寺地域の仏教建造物」について認められた評価基準

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(5. 世界遺産一覧表に記載する価値があることの証明)」引用で、文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(評価基準  )」引用です。評価基準(iii)については、推薦文には載っていましたが、顕著な普遍的価値(OUV)の言明には登録されていないようです。

評価基準 (i)
これらの歴史的建造物は、全体のデザインのみでなく、エンタシスをもつ太い柱、雲形の肘木や斗などに代表される細部のデザインにおいても、洗練された芸術的に優れたものである。
「法隆寺地域の仏教建造物」は、全体的な意匠と細部装飾の双方の点において、木造建築の傑作である。
評価基準 (ii)
法隆寺地域の仏教建造物は、日本における仏教建造物の最古の例として1,300年間の伝統のなかでそれぞれの時代の寺院の発展に影響を及ぼしており、日本文化を理解する上で重要な遺産となっている。
これらは、日本に仏教が伝来した直後にまでさかのぼる当国最初期の仏教建造物であり、後代の宗教建築に重大な影響を与えた。
評価基準 (iii)
法隆寺西院の金堂・五重塔・中門・回廊・法起寺三重塔などの8世紀以前の建造物11棟は、現存する世界最古の木造建造物である。
評価基準 (iv)
これら建造物のうち、7世紀から8世紀はじめに建造された金堂・五重塔・中門・回廊は、石窟寺院や絵画的資料からうかがうことのできる6世紀以前の中国の建造物と共通する様式上の特色を備えている。これに対して、それらに引き続いて8世紀のうちに建立された経蔵・食堂・東大門や東院の夢殿・伝法堂では、新しい唐の様式の影響を認めることができる。このように、法隆寺地域の仏教建物は、当時の中国と日本の間、ひいては東アジアにおける密接な文化交流の証人となっている。さらにまた、1地域のなかに7世紀以降19世紀に至る各時代の優れた木造建造物が集中して保存されている点でも他に類例がなく、日本の、そして東アジアの木造の仏教寺院の歴史を物語る文化遺産がここに統合されているといってよい。
法隆寺の建造物は、中国の仏教建築及び伽藍配置が日本文化に取り入れられ、後代に日本特有の様式を発展させたことを示している。 
評価基準 (vi)
仏教がインドから中国朝鮮を経由して日本に伝来したのは6世紀中頃である。聖徳太子は当時仏教の普及にきわめて熱心であり、太子ゆかりの法隆寺は日本に伝来した仏教の最も古い建造物を多数保存しており、宗教史上も価値が高い。
日本に仏教が伝来し、聖徳太子がこれを広めたことは、この文化圏に広く仏教が流布する上での重要な段階であったことを示している。

法隆寺地域の仏教建造物の完全性(インテグリティ)

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(4. 資産の保護状態 a) 現況)」引用で、文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(完全性 )」引用です。

法隆寺地域の国宝・重要文化財建造物は、1895年から1985年までの91年間に、学術的調査を実施し、その成果に基づいた必要な保存修理を完了しており、良好に保存されている。近い将来大規模な修理事業の必要はない。

資産の境界は、寺院境内の歴史的なまとまりを尊重し、中国の仏教建築及び伽藍配置の影響ならびに日本のその後の仏教建築への影響を示す上で不可欠な建造物を全て含んでいる。
48棟の構成要素からなる資産範囲の保存状況は極めて良好であり、したがって、資産は全体性・無傷性の両方の観点から、完全性の条件を保持している。

法隆寺地域の仏教建造物の真実性(オーセンティシティ)

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(5. 世界遺産一覧表に記載する価値があることの証明 c) 資産の真実性)」引用で、文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(真実性)」引用です。

 法隆寺地域の仏教建造物を構成する個々の国宝・重要文化財指定建造物は、歴代管理者の適切な維持・管理によって、意匠・材料・技術・環境のいずれにおいても創建以来の歴史を現在によく伝えている。
 1895年から1985年までの91年間に行われた保存修理事業は、法隆寺地域の仏教建造物を近代的概念としての文化財として国が保存することを決定し、それによって最初に行われた大規模なものであった。この保存事業、とくに第Ⅱ期(1934〜1955)における解体をともなう調査と修理のなかで木造の歴史的建造物の修理の技術が確立した。そこでは、歴史的建造物、文化財としての真正性は次のように保証されている。

i)意匠の真正さ
 各建造物の構造・形式には、近代以前の修理によって改造を加えられた箇所があるが、その多くは補強あるいは便宜的な用途の変更のためのきわめて部分的な変更であって、その建造物の歴史的な価値を表現している平面・構造・内外の立面意匠は創建当時のままである。
 1895〜1985年の保存事業では、建造物の文化財としての価値を損ねている後補部分・後補材の撤去、欠失した部分や部材の復原が行われた箇所がある。しかし、これは材料・技術・各種痕跡の綿密な調査と類例研究の結果をふまえ、それを複数の学識経験者によって構成された修理委員会の討議に基づいて実施したものあって、いささかも推定によるものではない。

ii)部材の真正さ
 法隆寺地上域の仏教建造物に限らず、日本の高温多湿な気候のもとで木造建造物は常に、腐朽・虫害、雨風による劣化・毀損の危険にさらされている。これら毀損した材は、伝統的に建物の構造の健全な保存のために新材に取り替えている。しかし、そうした危険にさらされている箇所は、柱根元・軒先・屋根材料・基礎など、主として周辺や末端部分に集中しており、その取替材部分もほとんどがそこに限定されているといってよいのであって、構造体の骨格的な基本部分と内部には当初材が残存するのが常である。また、日本の木造建造物は多数の同形式・同寸法の材を規格材のように使用することを特徴とし、そのための実際的な規矩・木割の技術が発達してきた。したがって、劣化・毀損しやすい周辺・末端部分の材、たとえば垂木や斗#などでも、当初材が必ずかなり残存している。このような木造建造物の毀損の状況や木造の歴史的建造物を支えてきた規矩・木割の技術は、欠失した部分や材のきわめて正確な復原を可能にする。
 1895〜1985年の保存修理事業では、綿密に部材の毀損状況を調査し、毀損している柱では根継ぎ法で修理し、その他の部材では矧木や継木の技術を駆使し、新材による部材の取替を最小限に止める努力をはらった。やむなく取外した古い部材は、実測図を作成し、詳細な記録を作成し、かつ重要部材は保存庫で保存している。

iii)技術の真正さ
 技術の真正さは部材の真正さと深く関係している。日本には伝統的に解体あるいは半解体という修理法があるが、これは日本の木造建造物が柱・梁による軸組構造であることと並んで、継手・仕口によるジョイント構法であるという事実に裏付けられている。このジョイント構法は、当初の技術や部材を損ねないで、建物を解体し、修理し、組み立てることを可能にしている。この点では、日本の木造建造物は、最初に建てるときから、後の解体修理を予想してつくられているということも可能かもしれない。
 1895〜1985年の保存修理事業では、修理不可能な毀損部材を取替えたり、部材の欠失部分を復原している。その場合、新しい部材に当初のものと同じ樹種を採用するのはもちろん、さらに、当初部材の加工技法を研究し、当時の大工が使った道具(やりがんな)を復原し、これを用いて新部材を仕上げるなど、技術の真正さの保持にも最大の努力をはらっている。

iv)環境の真正さ
 文化遺産に推薦する法隆寺地域の仏教建造物のほとんどは創建当初の位置を動いておらず、周囲の環境とともに良好に保存されている。この建造物の配置状況も重要な歴史資料と認識され、保存が図られている。

 木造建造物は、放置すれば、毀損しやすいことは事実である。しかし、適切な管理と修理を行えば、大きく改変することなくそれを保存することが可能である。法隆寺地域の仏教建造物をふくめて、日本の歴史的建造物の修理事業における部分・部材の撤去や修理に伴う現状の変更には、イコモス国内委員会メンバー多数を含む研究者を主体とした文化財保護審議会における厳密な審査に基づく国の許可を必要としている。

1895年以降の保存作業は、その時代の保存実務における最高水準を保って行われてきた。特に、1934年以降、木造の構造物を保存するための新たな技術が開発され、解体と復原を伴う根本修理において木造建造物の保存に関する健全な先例が確立した。
日本における保存実務は、意匠、材料、技術及び環境の真実性に関して確立された原則に適合している。建造物に対する変更はきわめて部分的であり、歴史的な形式と特色を保持し、創建当初の特徴が保護されている。毀損した部材はやむを得ない場合に限り、伝統技法に則って、慎重に取り替えられている。新しい材料の使用は厳格に規制され、すべての事業計画は専門委員会の意見及び承認に基づくこととされている。復原や部材の取替においては、伝統的な木造建造物から標準化できる構造の規格を考慮し、憶測は最小限にとどめられる。また、修理では、伝統的な工具及び技法を用いることに特別な注意が払われている。48棟の建造物のほとんどが創建当初の位置を動いておらず、歴史的な環境を保持している。
全般的に、資産の真実性は、形態・意匠、材料・材質、伝統・技術、位置・環境の観点から、高い水準を保持している。 

国内における万全の保護措置

保護・管理に係る要件

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(4. 資産の保護状態 d) 保存修復のための措置及び管理計画)」引用で、文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(保護・管理に係る要件)」引用です。

i) 法隆寺地域の建造物の管理
 世界遺産に推薦する法隆寺地域の仏教建造物は、すべて国が文化財保護法により国宝・重要文化財に指定している、それらの維持管理や修理は所有者である宗教法人がおこなうが、必要な保存修理・防災などのための技術上の指導と財政補助は国が与えている。木造建造物について最大の問題である火災に対処するために、自動火災報知設備・消火栓設備・避雷針設備を設置し、法隆寺・法起寺による自衛消防隊を結成し、公共消防隊と協力する体制をつくっている。また、法隆寺区域は国が史跡に指定し、地上の建造物と地下の遺構の保存をはかっている。さらに、現地に法隆寺文化財保存管理事務所を設置し、それによって区域内の清掃や警備、樹木の手入れ、保存設備の維持管理などに当り、これにも国が一部分を財政的に援助している。
 国宝・重要文化財ならびに史跡は国の許可なく現状を変更することはできない。国は建造物・地下遺構の保存や景観上の調和などに留意する方針によってそれに対応している。
 指定建造物の大半は所有者である寺院が年間を通じて広く一般に公開している。また、法隆寺はそれが所蔵する美術工芸品や歴史資料の収蔵公開施設や来訪者用の駐車場を設け、公開活用を図っている。

ii) 緩衝地帯の管理
 法隆寺地域とその緩衝地帯一帯は、「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)」の規定に基づいて1966年に国が斑鳩町歴史的風土保存区域として指定し、また「奈良県風致地区条例」に基づいて1966年に奈良県が斑鳩風致地区として指定し、全域の歴史的風土と自然環境の保全を図っている。
 歴史的風土保存区域のうち、法隆寺境内とその後背地の丘陵部はその特別保存地区に指定され、建築物の新築や宅地造成などの土地の形状を変更する行為を規制し、さらに必要に応じて土地の公有化をおこなう、その他の歴史的風土保存区域においても、歴史的風土の維持保存に反する行為を規制し、違反者を罰する規定がある。また、この区域のほとんどは都市計画では市街化調整区域となっている。
 斑鳩風致地区は1〜3種に区分される。1種地区は歴史的風土の特別保存地区に一致し、建築物の高さ(最高8m)を制限し、緑化を図っている。また、その周辺にあたる2・3種地区についても、それぞれの基準を定めて風致保全のための罰則のある規制を行っている。
 この地域を含む斑鳩町域については「都市計画法」に基づいて斑鳩町が都市計画区域と用途地域の指定を1989年におこなっている。推薦地域の全部と緩衝地帯のほとんどは市街化を抑制する区域である。緩衝地帯の南端にわずかにある市街化区域も、住宅地として文化遺産に調和した環境を保持することとなっている。

資産を構成する48棟の木造建造物は、文化財保護法の下に国宝・重要文化財に指定され、保護されている。また、それらを含む15.3ha の区域は、同法の下に史跡に指定され、保護されている。資産の現状を変更する場合には、事前に国の許可を必要とする。
資産の周囲には、適切な範囲の緩衝地帯(570.7ha)が設けられている。緩衝地帯は自然公園法、古都保存法、奈良県風致地区条例により開発の制限が行われている。
資産の管理責任は、所有者である宗教法人法隆寺と宗教法人法起寺にある。法隆寺では、保存修理技術者としての資質が認められた奈良県教育委員会職員が常駐し、修理工事の計画と監督にあたっている。資産の構成要素であるすべての建造物とその周辺の建築が木造であることから、それぞれの建造物には自動火災報知・消火・避雷の各設備が完備されている。加えて、法隆寺、法起寺とも自衛消防組織を結成し、公共消防機関との協力を図っている。
文化庁・奈良県・斑鳩町は、所有者に対して、保存管理に必要な財政的支援及び技術的指導を行っている。

国宝・重要文化財指定建造物目録

法隆寺は、西院と東院と子院群で構成されており、世界遺産に登録されているのは47棟。そのうち8世紀以前に建造された金堂、五重塔、中門、回廊は、現存する世界最古の木造建造物です。

法隆寺西院(Horyu-ji Sai-in (Horyu-ji West Temple))

西院では、回廊の中に東西に金堂・塔を配置しています。聖域の中枢部を左右非対称とする構成は世界的にも珍しく、この伽藍配置は、多少の変更はありましたが、現在に引き継がれています。また、付属建造物も残っているため、古代仏教寺院の構成の全貌がほぼ完全に残っています。現在、金堂や塔など15棟が国宝、6棟が重要文化財に指定されています。

1.金堂(Kondo)
現存する金堂は7世紀末頃の建築とみられます。金堂には、釈迦三尊像・薬師如来像・阿弥陀三尊像の3組の本尊が安置されています。
重要文化財指定年月日:1897年12月28日、国宝指定年月日:1951年6月9日
2.五重塔(Gojunoto)
釈迦の遺骨を祀るために飛鳥時代(593~710年)に建立されました。
重要文化財指定年月日:1897年12月28日、国宝指定年月日:1951年6月9日
3.中門(Chumon)
法隆寺の南大門を入ると正面にみえる二重門が中門ですが、現在入り口として使われていません。中門の左右には日本最古の金剛力士立像が安置されています。大きく口を開いて右に立つのが阿形像。口を閉じてやや左下をにらみつけて左に立つのが吽形像です。中門の左右には廻廊が連なり、廻廊内右に金堂、左に五重塔が建っています。
重要文化財指定年月日:1897年12月28日、国宝指定年月日:1951年6月9日
4.回廊(Kairo)
金堂・五重塔を囲み、経蔵・鐘楼を含め大講堂まで囲んでいます。このうち当初部分は経蔵、鐘楼の手前で閉じられていました。現状のように拡張されたのは平安時代中期とみられています。
重要文化財指定年月日:1899年4月5日、国宝指定年月日:1951年6月9日
5.大講堂(Daikodo)
現在の建物は990年に再建されたものです。大講堂は、僧侶の学問と修行の場所です。
重要文化財指定年月日:1899年4月5日、国宝指定年月日:1951年6月9日
6.経蔵(Kyozo)
天平様式を基調とすることから奈良時代の建築とみられ、現存する楼造の建物のなかでは日本最古と言われています。当初、経典を納める施設として建立されましたが、現在は、天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正像を安置しています。
重要文化財指定年月日:1899年4月5日、国宝指定年月日:1951年6月9日
7.鐘楼(Shoro)
経蔵と対称位置に建ち、時を知らせる梵鐘を奉納されている建物です。925年、大講堂とともに落雷により焼失し、現在の鐘楼は経蔵の様式にならって平安時代中期に再建されたものです。
重要文化財指定年月日:1899年4月5日、国宝指定年月日:1951年6月9日
8.上御堂(Kaminomido)
現在の建物は鎌倉時代に再建されたものです。堂内には平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像が安置されています。
重要文化財指定年月日:1898年12月28日
9.南大門(Nandaimon)
1438年に再建されたのが現在の建物で、法隆寺の総門です。
重要文化財指定年月日:1901年3月27日、国宝指定年月日:1953年3月31日
10.西円堂(Saiendo)
現在の建物は1250年に再建されています。薬師如来像を安置する八角円堂の建物です。
重要文化財指定年月日:1901年3月27日、国宝指定年月日:1955年2月2日
11.聖霊院(Shoryoin)
1284年に全面的に建て替えられ、現在の姿になりました。聖徳太子を供養する殿堂で聖徳太子像が祀られています。
重要文化財指定年月日:1901年3月27日、国宝指定年月日:1952年11月22日
12.東室(Higashimuro)
基本的には奈良時代(室町時代との見解もあります)の建築で、僧房(僧侶の居住する場所)です。
重要文化財指定年月日:1942年6月26日、国宝指定年月日:1965年5月29日
13.食堂(Jikido)
もとは政所という法隆寺の寺務所であったといわれますが、平安時代に多数の僧侶が食事をする食堂として使われるようになりました。
重要文化財指定年月日:1901年3月27日、国宝指定年月日:1952年11月22日
14.細殿(Hosodono)
食堂と並んで建っているのは「双堂(ならびどう)」と言われる奈良時代の建築様式です。(食堂と細殿の軒先には雨樋のあとがあり、一棟の建物として使用されていたのではないでしょうか。)
重要文化財指定年月日:1901年3月27日
15.東大門(Todaimon)
「中ノ門」ともよばれるこの門は、かつては鏡池の東側に南向きで造営されていたようですが(もとの位置は明確ではありません)、平安時代に西院と東院の間に移設されました。 
重要文化財指定年月日:1904年2月18日、国宝指定年月日:1952年11月22日
16.三経院・西室(Sankyoin and Nishimuro)
法華経、勝鬘経、維摩経の三経の解説を行った『三経義疏』にちなんで、三経院と名付けられ、西室の南端部を改造して建てられました。現在の建物は1231年の再建で、西室は1268年に建立されたと思われます。
重要文化財指定年月日:1908年4月23日、国宝指定年月日:1955年2月2日
17.妻室(Tsumamuro)
東室の東に建つ細長い建物。東室と同様に僧坊としての建物です。本来は東室を大房、妻室を小子房といい、一組をなしていたようです。大房には上位の僧侶が住み、小子房にはその僧侶に仕える者が住んでいたようです。
重要文化財指定年月日:1942年6月26日
18.綱封蔵(Kofuzo)
天平時代に流行した「双倉(ならびくら)」の唯一の遺構で、部材の材質や手法から、建立年代は平安時代中ごろと思われます。双倉として現存する例は東大寺正倉院宝庫とこの綱封蔵の二棟だけですが、本来の双倉の姿で残るのは、法隆寺の綱封蔵だけです。
重要文化財指定年月日:1942年12月22日、国宝指定年月日:1967年6月15日
19.大湯屋(Ooyuya)
1605年に建てられたもので、湯屋とは、簡単に言うと昔の「お風呂」がある施設で、僧侶たちがここで「身を清める」ための沐浴を行っていたとされています。
重要文化財指定年月日:1942年12月22日
20.大湯屋表門(Ooyuya Omotemon)
大湯屋表門は大湯屋に通ずる門として、大湯屋の北側、築地塀にあります。築地塀は粘土を突き固めて作った塀の事で単に築地とも言います。
重要文化財指定年月日:1942年12月22日
21.大垣(Oogaki)
南大門の左右に伸びています。粘土を突き固めて作った築地塀で、南面大垣・東面大垣・北面大垣 3棟があります。
重要文化財指定年月日:1943年6月9日

法隆寺東院(Horyu-ji To-in (Horyu-ji East Temple))

八角円堂である夢殿を本堂とし、その周囲を回廊が囲み、後方に伝法堂や僧坊が配置されています。夢殿をはじめ3棟が国宝、6棟が重要文化財に指定されています。

22.夢殿(Yumedono)
東院の本堂で、『法隆寺東院縁起』では、創立を739年となっています。現在の堂は1230年の大改造によるもので、屋上の宝珠露盤などには天平の面影を残しています。
重要文化財指定年月日:1897年12月28日、国宝指定年月日:1951年6月9日
23.南門(Nanmon)
東院礼堂の南側に位置する別名不明門ともいい、あかずの門となっています。 1459年建立。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日
24.四脚門(Shikyakumon)
東院四脚門は鎌倉時代の建立で、夢殿がある東院伽藍の入り口にあたります。四脚門とは日本の門の建築様式のひとつで、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てたもので四足門とも呼ばれます。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日
25.礼堂(Raido)
夢殿を囲む回廊の南に位置する堂が礼堂です。現在の礼堂は鎌倉時代に再建されたもので、昭和の修理時に旧形式に復原されています。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日
26.廻廊(Kairo)
夢殿を囲むように回廊があります。回廊南側に礼堂、北側に舎利殿が立っています。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日
27.鐘楼(Shoro)
下層に覆いをつける袴腰形式としては現存する日本最古のものです。内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊るされ、舎利殿の舎利を奉出するときや、東院伽藍で法要が営まれる時の合図として撞かれています。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日、国宝指定年月日:1955年2月2日
28.伝法堂(Denpodo)
伝法堂は聖武天皇の夫人である橘古那可智の住宅を仏堂に改造したものです。内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像が安置されています。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像も安置されています。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日、国宝指定年月日:1951年6月9日
29.舎利殿・絵殿(Shariden and Eden)
絵殿には、摂津国(現在の大阪府)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が延久元年(1069年)に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵(国宝)が飾られていました。太子の生涯を描いた最古の作品ですが、明治11年(1878年)、当時の皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっています。代わりに「聖徳太子絵伝」が飾られています。舎利殿には聖徳太子が2歳の春に東に向って合掌した際、掌中から出現したという舎利(釈迦の遺骨)を安置しています。舎利殿と絵殿で1棟。
重要文化財指定年月日:1900年4月7日
30.大垣(Oogaki)
南面大垣・東面大垣・北面大垣 3棟 があります。
重要文化財指定年月日:1943年6月9日

法隆寺子院その他の建造物(Horyu-ji Shi-in (Monasteries) and other structures)

法隆寺子院は現在、西院の南と、西院と東院のあいだにまとまって残っています。本堂・客殿・門など17棟が重要文化財に指定されています。

31.北室院本堂(Kitamuro-in Hondo)
重要文化財指定年月日:1904年2月18日
32.北室院表門(Kitamuro-in Omotemon)
重要文化財指定年月日:1911年4月17日
33.北室院太子殿(Kitamuro-in Taishiden)
重要文化財指定年月日:1943年6月9日
34.地蔵堂(Jizodo)
重要文化財指定年月日:1908年4月23日
35.新堂(Shindo)
重要文化財指定年月日:1911年4月17日
36.宗源寺四脚門(勧学院表門)(Sogen-ji Shikyakumon)
重要文化財指定年月日:1921年4月30日
37.福園院本堂(Fukuon-in Hondo)
重要文化財指定年月日:1942年6月26日
38.西園院客殿(Saion-in Kyakuden)
重要文化財指定年月日:1942年12月22日
39.西園院上土門(Saion-in Agetsuchimon)
重要文化財指定年月日:1942年12月22日
40.西園院唐門(Saion-in Karamon)
重要文化財指定年月日:1943年6月9日
41.宝珠院本堂(Hoshu-in Hondo)
重要文化財指定年月日:1942年12月22日
42.薬師坊庫裡(Yakushibo Kuri)
重要文化財指定年月日:1943年6月9日
43.中院本堂(Chu-in Hondo)
重要文化財指定年月日:1947年2月26日
44.律学院本堂(Ritsugaku-in Hondo)
重要文化財指定年月日:1976年5月20日
45.旧富貴寺羅漢堂(Kyu Fuki-ji Rakando)
重要文化財指定年月日:1971年12月28日
46.東南隅子院築垣(Tonan-sumi Shi-in Tsuigaki)
重要文化財指定年月日:1943年6月9日
47.西南隅子院築垣(Seinan-sumi Shi-in Tsuigaki)
重要文化財指定年月日:1943年6月9日

法起寺(Hokki-ji)

世界最古の木造建造物の一つであり、国宝に指定されています。

48.三重塔(Sanjunoto)
「法起寺三重塔露盤銘」という史料により、創建は706年だということがわかっています。この塔はわが国に現存する最古の三重塔として貫重な遺構となっています。

法隆寺について

飛鳥時代、百済から仏教が伝わり、廃仏派(物部氏)と崇仏派(蘇我氏)は衝突を繰り返しました。戦いは蘇我氏の勝利に終わり、ここから蘇我氏の独裁政治が始まりました。蘇我氏は強大な力を背景に女帝を誕生させました。それが推古天皇で、その時に摂政(政治のすべてを任された)の地位についたのが厩戸皇子(聖徳太子)です。厩戸皇子(聖徳太子)は仏教をより盛んにするために法隆寺(別名斑鳩寺)を建築しました。建立に関しては諸説あるものの、聖徳太子こと厩戸皇子が建立したことはほぼ間違いがないようです(「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という学説が唱えられて以来、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王子(聖徳太子)」という表現に変わっているようです)。

法隆寺の国宝(美術品)

世界遺産として登録されているのは建造物ですが、他にも法隆寺が保有している国宝は美術品として20件あります。文化財の数え方は「件数」で、例えば「木造四天王立像」は四体まとめて一件と数えます。

彫刻

(仏像は重要文化財のうち彫刻に分類されます。仏像は大きく「如来」「菩薩」「明王」「天部」の4グループに分類されます。このほか神像や高僧像などもあります)
乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)…行信は法隆寺東院の復興に尽力した奈良時代の僧で、乾漆(乾漆とは石膏などで型を作り、麻布を貼り合わせて作る技法です)の仏像です。
乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)…乾漆の仏像で、薬師如来は病気をいやしてくれる如来です。
塑造塔本四面具(五重塔安置)…東面が菩薩と維摩居士の問答、西面が釈迦仏舎利、南面が弥勒浄土、北面が釈迦涅槃(釈迦の入滅)の様子を塑造(粘土で作られた彫刻の事)の群像で表しています。
塑造道詮律師坐像(所在夢殿)…道詮は法隆寺夢殿を再興し、法隆寺の学問振興に力を注いだ僧で、律師とは僧官の職位です。塑像の高僧像です。
銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏) 木造厨子…伝橘夫人が身辺に置き私的に礼拝するための仏像で、木造の厨子(仏像などを安置する仏具の一種)に阿弥陀三尊像が安置されています。中央に阿弥陀如来像左に勢至菩薩右に観音菩薩三体一組で阿弥陀三尊像といいます。
銅造観音菩薩立像(夢違観音)…夢違観音は通称で正式には聖観音で、人々の願いに応じて姿を変えます。聖観音は観音菩薩の基本的な姿です。
銅造釈迦如来及両脇侍像〈止利作/(金堂安置)〉…銅像の阿弥陀三尊像です。
銅造薬師如来坐像(金堂安置)…銅像の薬師如来像です。
木造観音菩薩立像(九面観音)…頭上に九面ありあらゆる方向を見て人々を救います。(通常十一面だと思うのですが、なぜ九面なのかわかりませんでした)
木造観音菩薩立像(夢殿安置)…通称「救世観音」とも呼ばれます。これも聖観音です。
木造観世音菩薩立像(百済観音)…聖観音です。
木造四天王立像(金堂安置)…日本最古の四天王像で、南東に持国天、南西に増長天、北西に広目天、北東に多聞天がたっています。
木造釈迦如来及両脇侍坐像(上堂安置)…木造の阿弥陀三尊像です。
木造聖徳太子〈山背王、殖栗王/卒末呂王恵慈法師〉坐像(聖霊院安置)…正装の聖徳太子像です。笏を持ち、豪華な冠を付けていることから正装であることがわかります。
木造地蔵菩薩立像…地蔵菩薩は地獄など、あらゆる世界を巡って人々を救う菩薩です。
木造毘沙門天立像(金堂安置)・ 木造吉祥天立像(金堂安置)…毘沙門天・吉祥天はともに天部で仏教の敵から守るために働きます。毘沙門天は福徳と戦闘の神で北方を守護する多聞天の別名です。吉祥天は五穀豊穣をもたらす美しき女神です。
木造薬師如来及両脇侍坐像(講堂安置)…木造の薬師三尊像です。薬師如来像の左に月光菩薩・右に日光菩薩が配置されています。一般的には薬師如来像を坐像、月光菩薩・日光菩薩を立像となっていますが、ここの像はともに坐像となっています。

工芸品

玉蟲厨子…仏教工芸品で装飾に玉虫の羽を使用していることからこの名前が付けられたようです。
黒漆螺鈿卓…黒漆の卓(細長いちゃぶ台のようなもの)です。
四騎獅子狩文錦…錦織物で、染織物としてはとても大きなもののようです。

法隆寺の基本情報

住所
〒636-0115 生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
TEL/FAX
0745-75-2555 / 0745-75-0102
拝観時間
2/22~11/3 :午前8時~午後5時
11/4~2/21 :午前8時~午後4時半
※閉館時間が近づくと入れない施設がございます。
拝観料(西院伽藍内/大宝蔵院/東院伽藍内共通)
【個人料金(1名に付き)】
一般1,500円 / 小学生750円
【団体料金(30名以上 1名に付き)】
一般1,200円 / 大学・高校生1,050円 中学生 900円 / 小学生600円
※生徒人数が30名に満たない小学校、中学校は、減免申請書を拝観窓口に当日提出すると団体扱いになります。減免申請書には、教育委員会、または学校長の公印が必要です。減免申請書は公式サイトの拝観のご案内ページでダウンロードできます。

法起寺の基本情報

住所
〒636-0102 生駒郡斑鳩町岡本1873
TEL
0745-75-5559
拝観時間
2月22日~11月3日:午前8時30分~午後5時
11月4日~2月21日:午前8時30分~午後4時30分
拝観料
【個人料金(1名に付き)】
一般300円 / 小学生200円
【団体料金(30名以上 1名に付き)】
一般250円 / 大学・高校生200円 / 中学生150円 / 小学生100円