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現存天守で最大・最高の「姫路城」(1993年登録)~日本の世界遺産(文化遺産)

日本では1993年12月、法隆寺地域の仏教建造物(奈良県)と姫路城(兵庫県)が世界文化遺産に最初に同時登録されました。

世界遺産についてはこちらの記事で説明しています。

 

goldsky.biz

 

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姫路城「フリー写真素材 フォトック様より」

世界遺産一覧表に記載する価値があることの証明

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(3. 資産の内容)」引用で、文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」引用です。

姫路城の指定建造物は、以下に述べるように、17世紀初頭の一連の軍事施設として歴史的配置を維持するとともに、芸術性の高い優れた意匠になるもので、世界遺産条約第1条の建造物群に該当する。その82棟の国宝・重要文化財指定建造物目録は、付属資料6(ここでは「姫路城の世界遺産への構成資産」に記載)にある。
 指定建造物の大部分は、池田輝政時代の1601年から1609年にかけての建築であるが、西端の一郭の櫓・土塀は本多忠政が17世紀前期に改修したもので、南端の一郭の東端の門は池田時代以前の1599年の建築である。
 その建造物群の中心は、屋根を重ねて高くつくった楼閣状の建物からなる天守群である。その周辺には見張り等の目的の櫓、城の防御のための門や土塀が周到な配慮のもとに配置してあり、市中からも遠望できる美しい全体の姿が構成されている。
 城の中心となる天守群は、内郭の北東よりの最も高い位置に建っている。5層の屋根を重ねた大天守と3層の屋根を重ねた東小天守・乾小天守・西小天守の4つの建物を4隅に置き、それぞれを廊下状の櫓でつないで、四角の形に建物を配置する。
 天守群の西南は、天守群にいたる主要通路になっている。この天守群に向かって、城の防御のために徐々に高くなるように地形が区画され、区画の境に土塀が建っている。土塀の途中に門を開く。天守群に到達するには、各門を通過せねばならず、防御の万全を期している。とくに天守群に近い門は、土塀の一部を利用した簡略な形で、城を襲撃する外敵の目をあざむくように工夫されている。
 天守群の北側に建つ櫓は、戦争時に城にたてこもる際に必要な食糧等の物資の貯蔵のための建物である。
 天守群の東側の道は、わざと曲がりくねって急勾配にし、敵を通りにくくした、城の防御を考慮したつくりである。道をのぼりきった位置には、櫓・門・土塀があり、せめのぼってきた外敵を上から攻撃できるようになっている。
 天守群の南の一郭、備前丸は、現在は空地になっているが、もとは城主の居館が建っていたところである。これらの建物は、1882年に火災で焼失した。
 内郭の西端の一郭は、本多忠政が整備したところで、現在は外廻りの櫓・土塀を残すだけで敷地は庭園となっているが、もとは城主の居館・御殿が建っていた。この部分の建物は、1874年に軍隊の兵舎設置のため撤去された。
 土塀や櫓には、丸・三角・四角の銃眼が開いており、防御を目的とする城郭建築の特徴をよくあらわすとともに、独特の意匠をつくりだしている。
 姫路城の建造物群は、すべて木造、瓦葺で、白色の土塀で統一された優美な外観をもつことから、白鷺城の別名をもち、その名でも広く知られている。

「姫路城」は、17世紀初期における日本の城郭建築の最も良好に遺存する事例である。兵庫県姫路市に位置し、古来、この地域は西日本の交通の要衝とされてきた。
播磨平野の中央部、小高い丘の上に建つ城郭資産の面積は107ha。日本の封建時代初
期(17世紀初頭)以来の高度に発達した防御システム及び独創的な防御装置の一部である、大天守、小天守、それぞれをつなぐ廊下状の建造物で構成される天守群を中心とした82棟の建造物から成る。1868年、幕府が倒れ、新政府が発足するまで、城は約3世紀にわたり藩の中心として機能した。それらの主な集合体は市内のほぼどこからでも見ることができ、「白鷺城」と称される白色の漆喰塗り土壁で統一された優美な外観、及び多数の建築と重なり合う屋根による繊細な構成の両者において、機能と美しさを融合させた木造建造物群の傑作である。 

姫路城の世界遺産への評価基準

この世界遺産は世界遺産評価基準のうち、(i) (iv) に該当します。
(平成5年記載)

(i) 人間の創造的才能を表す傑作である。
(iv) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(「日本ユネスコ協会連盟」からの引用となります)

「姫路城」について認められた評価基準

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。文字が「世界遺産一覧表記載推薦書」引用で、文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」引用です。評価基準(iii)については、推薦文には載っていましたが、顕著な普遍的価値(OUV)の言明には登録されていないようです。

評価基準 (i)
路城の建造物群のデザインは、木造の構造体の外側を土壁で覆い白漆喰で仕上げた単純な外観素材を用いつつ、一方で配置や屋根の重ね方では複雑な外観形態を構成しており、独特の工夫をしたものである。白鷺城の別称が示すように、その美的完成度は、わが国の木造建築のなかでも最高の位置にあり、世界的にみても他にないすぐれたものといえる。
「姫路城」は、木造建造物群の傑作である。それは、白漆喰の使用及び、多数の建築群と屋根の重なりが築く繊細な構成の両面において、合理的機能を卓越した美に結合させている。 
評価基準 (iii)
姫路城がつくられた17世紀初頭は、将軍や大名が統治する日本の封建制の時代であった。大名達は、自らの権力を誇示するために大規模な城郭を競って築いたが、姫路城は現存する最大の城郭建築であり、その壮麗な意匠は、その時代の特質をよくあらわしている。姫路城はこの時代の日本文化を理解する上で貴重な遺産といえる。
評価基準 (iv)
姫路城がつくられた17世紀初頭は、日本で城郭建築が最も盛んにつくられた時代であった。姫路城は、天守群を中心に櫓・門・土塀等の建造物、石垣、濠等の土木工作物を良好に保存しており、防御に工夫した日本独自の城郭の構成を最もよく示した城といえる。
「姫路城」は、日本の木造城郭建築の最高点を表し、その重要な特徴を損傷なく保存している。

「姫路城」の完全性(インテグリティ)

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。文字が「世界遺産一覧表記載推薦書」引用で、文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」引用です。

城は世界各地で築かれ多くの建造物群が残されているが、その多くは石造や煉瓦造である。姫路城をはじめとする日本に現存する16世紀から17世紀の城は、濠や石垣を除き、主要な建造物群はすべて木造で、外壁は土壁でつくられている。このためその建築様式やデザインは、世界で他に類をみない貴重なものといえる。
 日本国内の他の城と比較しても、4つの天守からなる天守群の構成や白壁でつくられた建造物群全体の意匠はとくに優れており、天守群・櫓・門・土塀の城郭の構成を示した建造物群が最もよく保存されたもので日本を代表する文化遺産といえる。

資産は、内郭と外郭で構成される城郭のほぼ全域と一致する107ha の一区域内の範囲であり、南東部を除けば、外郭の城壁に沿う濠によって区画される。歴史的変遷の過程で既に失われてしまった建物もあるが、資産の範囲には、天守・櫓・城壁・城門・石垣等を含む82棟の構成要素が17世紀初期の配置と状態を申し分なく保っている。
歴代城主は、17世紀、18世紀、19世紀のそれぞれの時期に順次修理を行い、城を維持してきた。時代の変遷の中で一部失われた建造物もある。政府が接収し、西の丸の一部や武家屋敷が軍事施設に取って代わった。その後この施設は1945年に撤去され、公共建築に建て替わった。1882年には城主の居館が火災で焼失したが、損失は軽微と考えられ、全体の完全性は維持されている。
以上のように、「姫路城」は17世紀の日本の城郭に見られる内部及び外観の特徴を十分に保っており、全体性及び無傷性の双方の観点から完全性の条件を満たしている。 

「姫路城」の真実性(オーセンティシティ)

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。文字が「世界遺産一覧表記載推薦書」引用で、文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」引用です。

姫路城の建造物群とその所在地域は、築城以来19世紀後期まではここに住んだ歴代大名によって、それ以後は国及び関係機関により適切な維持・管理が行われ、意匠、材料、技術、環境のいずれにおいても創建以来の状態を現在によく残している。
 とりわけ1934年から1964年までの30年間に行われた保存事業は、国が直轄事業として根本的に修理・復原をしたもので、その保存のために大いに意義のあるものであった。この保存事業では、日本で確立された木造文化財の修理のための優れた技術が活用された。また、修理の方針については、複数の学識経験者によって構成された修理委員会の討議に基づき決定された。とくに復原のための現状変更については、国がイコモス国内委員会メンバー多数を含む学術的な文化財保護審議会で審査を行い、許可を与えている。この保存事業により文化財としての真正性は次のように保たれた。

i) 意匠の真正さ
 姫路城の建造物群は、16世紀初期からその当初の意匠をそのまま守ってきた。1934年から1964年までの修理においても意匠の復原はほとんど必要がなかった。
 一般に木造の城郭建築では、防火目的のため木造の構造体の外周を土壁で覆う形をとる。このため、土でできた外壁に接した木材にどうしても蒸れや腐れが起きやすい。姫路城の建造物群の場合、建築後かなりの年数を経ていたため、外壁に接した木材や外壁の土は、相当程度破損や腐朽が進行していた。
 1934年から1964年にかけての保存事業では、この破損した木材の取り替えが行われたが、破損部材を取り替えるためには、外壁を取り外す必要があった。外壁の素材の維持のため、壁を構成する土の成分や材料の組織を化学的に検査を行い、それに基づいて修理前と同じ質の土で壁を復原するべく努めた。また、壁の仕上げについては、伝統的な技法を受け継いだ職人の手によって、昔ながらの手法によって仕上げる努力がはらわれた。このようにして創建時の意匠が引き継がれた。

ii) 材料の真正さ
 1934年から1964年にかけて行われた修理では、土壁に覆われて腐朽した木の部材や地盤の湿気により腐朽した部材等の取り替えを余儀なくされた。これらの部材については、木材の材質、仕上げ、加工方法等の綿密な調査を行い、取り替え後の部材が同じ材質、仕上げ、加工となるように努力がはらわれた。取り替えを必要とした部材は、外壁に接した部材の多くと一部の柱の足元等で、その他の基本となる構造体及び建物の内部には当初材がすべて残されている。

iii) 技術の真正さ
 1934年から1964年にかけての保存事業では、部材の加工から組立にいたるまで、すべて伝統的な技法で行われ、技術的には創建当初と変化しているところはない。ただし、大天守の基礎については、鉄筋コンクリートの補強がある。これは、5層の屋根を重ねた巨大な大天守の700トンの重量に対して地盤が弱く、水平・垂直方向に大きな変位を生じていたためで、修理を必要とする大きな原因であった。地盤は地中深い岩盤とその上部の土からできていたが、日本は地震国であり、大天守のような巨大な建物では、補強のない地盤では破壊の危険がある。このため将来的な保存を考慮して地盤の中に鉄筋コンクリートの基礎フレームを建物と地下の岩盤の間に挿入した。この補強は、外観からは見えない土中に限ったものであり、弱い土をコンクリートフレームに置き換えただけで他の部分に影響を与えるものではない。

iv) 環境の真正さ
 姫路城は、歴史的な変遷の過程で一部の建造物を失ったが、天守群をはじめとする主要な建造物群は創建時のままの状態を保っている。
 所在地域の周辺部分の環境は、武士階級の消滅などの歴史的経過のなかで、大名の居館や周辺の武家屋敷の地区の歴史的建造物が失われたが、濠や石垣などは保存されている。また、この区域で進行中の、建造物群とその周辺環境にあわせた保存整備計画は、都市環境の近代化の過程の中にあって、歴史的遺産を社会的に活用するため最大限の良好な環境の形成をめざしている。

1934年から行われている一連の保存修理は、形態・意匠、材料・材質、伝統・技術、位置・環境の真実性に関して確立された概念に従って、木造建造物修理のために日本で発展してきた技術を用いて行われてきた。新たな材料の使用は厳格に管理され、重要な提案は全て審議会で審議され承認を得ることとされている。19世紀または20世紀に増築された建造物は撤去されている。

唯一の現代的材料の適用は、鉄筋コンクリート造基礎の挿入である。これは、地震活動が活発な地域においては、脆弱な地盤により主要構造の変形が進むと、急激な崩壊につながるという理由から、その正当性が裏付けられて行われたものである。不相応な扉や窓といった初期の修復事業で設置された造作については、建立当初の構造や材料について資料的に明らかなものについて適切な姿に復原した。

「姫路城」保護・管理に係る要件 

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトの「世界遺産一覧表記載推薦書」2. 法的事項のb) 法的保護状況を参考にしています。

姫路市の建造物群を構成する建造物82棟は、文化財保護法(1950年8月29日施行)弟27条に基づき、国宝または重要文化財に指定されており(以下、指定建造物という)(付属資料6 建造物目録及び官報告示写し)、また、それらが所在するところの推薦地域は、法第69条により特別史跡に指定されている(以下、史跡という)。
 指定建造物および特別史跡指定地内の現状を変更する行為は制限され、国の許可を得る必要がある(法第43条・80条)。指定建造物の修理は国に届出が必要で(法第43条の2)、修理と管理には国が経費を補助し、技術的指導を行う(法第35条・47条)。また、文化財保護法の条項に違反した場合には罰則が課せられる。
 指定建造物は国の所有であり、その所在するところの史跡も主として国有地であるが、一部は兵庫県、姫路市及び民間の会社法人等の所有地である。そして文化財保護上の管理は、指定建造物及び史跡指定地ともすべて、姫路市が管理団体として必要な管理を行っている。管理団体とは、文化財保護法にもとづいて、所有者にかわり保存のために必要な管理(見回り、除草、防災施設・保存施設の設置や修理及びに公開等の文化財の利用のための行為)を行うために文化庁長官が指定した地方公共団体もしくは法人のことである(法第32条の2・47条の2)。管理団体である姫路市は、指定建造物の修理を行うが、この場合には所有者である国の意見を聞く必要がある(法第34条の3)。また、上記の現状変更の許可の申請や修理の届出等も、姫路市が所有者である国に対して行う。
 指定建造物の公開は、管理団体である姫路市が行っている(法第47条の2)。建造物群の大部分は一年を通じて一般に公開されており、未公開建造物も管理団体の姫路市の許可を得て見学することができる。

以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトの「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」を引用しています。

1868年に日本の近代が幕開けた後は、政府が地方公共団体と協力して遺産の保護に
当たってきた資産を構成する83棟の建造物及び107ha の土地は、すべて、文化財保護法の下で国宝・重要文化財又は特別史跡に指定され、保護されている。この法律に基づき、遺産の現状変更行為が規制されており、あらゆる変更行為に国の許可を必要としている。143ha の緩衝地帯における開発圧力は、姫路市都市景観条例(1987年)によって規制されている。姫路市では、景観法(2004年)に基づき、この条例を向上させるための改正を2008年に行った。また、景観法の法制化に伴い、2007年には1988年都市景観形成基本計画の改正及び姫路市景観ガイドラインの策定が行われた。これにより、「姫路城」を眺望できる道路沿いの全ての事業、及び、「姫路城」周辺における一定規模以上の事業については姫路市に届け出ることとされ、姫路市は提案される建築計画が資産の歴史的環境の特徴と調和していることの確認を行うこととされた。
資産を構成するすべての建造物及びその土地の大部分は、国の所有である。それ以外の
土地は、兵庫県・姫路市・民間企業の所有である。姫路市は、文化財保護法に基づき、同法の下に保護されている建造物及び土地の管理団体に指定されており、姫路城管理事務所を設置するとともに、姫路城管理条例(1964年)、特別史跡姫路城保存管理計画(1986年作成、2008年最終改正)に定めた事項及び国の指導に従って、維持の措置、清掃、定期点検、交通規制、防災、敷地内の整備、案内業務等、管理の責務を果たしている。
資産を危険にさらす最大の要因が火事及び地震であることから、建造物には自動火災報
知器・防犯カメラ・消火・避雷の設備が行われ、それらの全体が姫路城防災センターにおいて監視されている。地震に関しては、大天守に求められる構造補強の方法を研究・分析・開発及び実施するために、姫路市が2006年に専門委員会を設置した。 

姫路城の建造物目録

1.大天守(Dai-Tenshu)
大天守は南面を正面とし、外観5重・地上6階地下1階の7階建で、入母屋破風・千鳥破風・唐破風が層をなし、3つの小天守と渡櫓で繋がれて連立式天守郭を構成しています。我が国の城郭建築の最盛期を代表する建築物であり、白漆喰塗りの城壁の美しさから白鷺城とも呼ばれています。姫路城は1601年から9年かけて建てられ、大天守は1609年に建てられたものです。
重要文化財指定年月日:1931.01.19(昭和6.01.19) 国宝指定年月日: 1951.06.09(昭和26.06.09)
2.東小天守(Higashi-Kotenshu)
大天守の北に位置し9メートルの石垣の上に立つ、外観3重の地上3階、地下1階の4階建てとなっています。建設当初は「うしとらのすみやぐら」と呼ばれていました。姫路城は1601年から9年かけて建てられ、東小天守は1609年に建てられたものです。傷みが少なく、昭和の大修理を経ても築城当時に近い状態のままのようです。
重要文化財指定年月日:1931.01.19(昭和6.01.19) 国宝指定年月日: 1951.06.09(昭和26.06.09) 
3.乾小天守( Inui-Kotenshu)
建設当初は「いぬいやぐら」と呼ばれていました。乾小天守は3つの小天守の中で最も規模が大きく、西側に大きく張り出した石垣の上に建てられています。外観は軒唐破風 ・千鳥破風と三重目の火打窓が建物を飾り、装飾性の乏しい東小天守とは対照的です。大天守の西北に位置し外観3重、地上4階地下1階の5階建て。東面は「ロの渡櫓」に、南面は「ハの渡櫓」に接続しています。窓に格子もなく開放的なのが特徴です。 姫路城は1601年から9年かけて建てられ、乾小天守は1609年に建てられたものです。
重要文化財指定年月日:1931.01.19(昭和6.01.19) 国宝指定年月日: 1951.06.09(昭和26.06.09) 
4.西小天守( Nishi-Kotenshu)
大天守の西南に位置し外観3重、地上3階地下2階の5階建て。東面は「ニの渡櫓」で大天守に、北面は「ハの渡櫓」で小天守につながっていて、地階東面に「水六門」を備えて出入口となっています。南面は中央に軒唐破風を設け、3重に黒漆塗り・錺金具打ちの火灯窓を2所設けられています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられ、西小天守は1609年に建てられたものです。
重要文化財指定年月日:1931.01.19(昭和6.01.19) 国宝指定年月日: 1951.06.09(昭和26.06.09) 
5.イの渡櫓( I-no-Watariyagura)
南面で大天守に、北面で東小天守に接続し、建物の高さ9.03メートル、高さ8.88メートルの石垣の上に位置しています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられ、イの渡櫓は1609年につくられたものです。
重要文化財指定年月日:1931.1.19
6.ロの渡櫓(RO-no-Watariyagura)
東小天守と乾小天守をつなぐ天守曲輪では一番長い渡櫓です。建設当初は「北の長屋」と呼ばれていました。  姫路城は1601年から9年かけて建てられ、ロの渡櫓は1609年につくられたものです。
重要文化財指定年月日:1931.1.19
7.ハの渡櫓(HA-no-Watariyagura)
南面で西小天守に、北面で乾小天守に接続し、建物の高さ9.167メートル、高さ10.061メートルの石垣の上に位置しています。  姫路城は1601年から9年かけて建てられ、ハの渡櫓は1609年につくられたものです。
重要文化財指定年月日:1931.1.19
8.ニの渡櫓(NI-no-Watariyagura)
東面で大天守に、西面で西小天守に接続し、建物の高さ9.679メートル、建物面積56.784平方メートル(17.177坪)。 姫路城は1601年から9年かけて建てられ、ニの渡櫓は1階に水五門を設け、水五門や1階の材が大天守と西小天守の石垣にとりつく状態から、天守群の中で最後(1609年)につくられたものと考えられます。
重要文化財指定年月日:1931.1.19
9.菱の門(Hishi-no-mon)
入城口を入ったすぐ目の前に現れる門で、姫路城最大の門。姫路城入城口の顔ともいえる代表的な門です。見た目は豪華ですが、西に門番部屋が控え、上層階には、多数の兵が籠もることができる部屋が3部屋用意されるという実戦的な構造でもあります。  姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、菱の門がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
10.菱の門東方土塀(Hishi-no-mon Toho-dobei)
菱の門から東に延びる塀で、東へ行くにしたがって、地盤が傾斜し下がることで、石垣が段々と高くなっていきます。菱の門の厳重な防御と石垣の高さで、内部の三国堀曲輪への侵入を防いでいることがわかります。延長88.7mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が47か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、菱の門東方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
11.菱の門西方土塀(Hishi-no-mon Seiho-dobei)
菱の門南西隅から南方へ延びる塀で、延長70.8m、銃を構えるため備えられた小さな窓が4か所あります。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、菱の門西方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
12.菱の門南方土塀(Hishi-no-mon Nanpo-dobei)
菱の門手前の桝形南辺の石垣上に造られた土塀である。延長折曲り26.2mで、銃眼10箇所が設けられ、大手口の守りを固めている。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
13.いの門(I-no-mon)
菱の門をくぐった正面に位置する場所にある門です。これは城内の門としては小さな門です。両開きの門の扉を開いた際、雨などからの保護のため、門の柱の内側に控柱を2本立てそれぞれを貫でつなぎ、それぞれに小さな切妻屋根がかけられた「高麗門」という形式の作りになっています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、いの門がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
14.いの門東方土塀(I-no-mon Toho-dobei)
いの門脇の石垣より以東部分は高さが低くなっています。 菱の門南西隅から南方へ延びる塀で、延長106.2m、補強のための控壁5か所、銃を構えるため備えられた小さな窓が33か所あります。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、いの門東方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
15.ろの門(RO-no-mon)
姫路城内の三国掘の北、いの門の先に位置しています。いの門などと同様に高麗門となっています。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ろの門がいつつくられたかは確認できませんでした。 
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
16.ろの門東方土塀(RO-no-mon Toho-dobei)
延長14.2mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が8か所あります。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ろの門東方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
17.ろの門西南方土塀(RO-no-mon Seinanpo-dobei)
延長140.0mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が28か所あります。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ろの門西南方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
18.はの門(HA-no-mon)
門と櫓が合体した「櫓門」と呼ばれるスタイルの門です。司令塔の役目をもった重要な門で「はの門」は柱で支えられ、石垣を崩しても倒れない構造になっています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、はの門がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
19.はの門東方土塀(HA-no-mon Toho-dobei)
延長24.2mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が4か所あります。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、はの門東方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
20.はの門南方土塀(HA-no-mon Nanpo-dobei)
延長34.7mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が12か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、はの門南方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
21.はの門西方土塀(HA-no-mon Seiho-dobei)
延長8.4mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が3か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、はの門西方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
22.にの門(NI-no-mon)
姫路城でも最高レベルの防御力、攻撃力を誇り、門は門柱、冠木、大戸からくぐり戸まで一面鉄板で覆われています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、にの門がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
23.にの門東方下土塀(NI-no-mon Toho-shimo-dobei)
延長26.1mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が6か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、にの門東方下土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
24.にの門東方上土塀(NI-no-mon Toho-kami-dobei)
延長25.7mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が10か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、にの門東方上土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
25.水の一門(Mizu-no-Ichi-mon)
2本の柱とその上部を連結する冠木で、切妻造りの屋根を支えた平入りの簡素な棟門という形式の門です。見かけは小さな門ですが、守りの備えは十分です。「水の門」は、この先、水の六門まで6つ連続し天守台の水を確保するためで、水の一門から五門までの細長い区域は「水曲輪」とも呼ばれます。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、水の一門がいつつくられたかは確認できませんでした。 
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
26.水の一門北方築地塀(Mizu-no-Ichi-mon Hoppo-tsuijibei)
水ノ一門に向かって右側にあり、通称油塀とも言います。門の屋根の高さよりはるかに高く、延長5.2mあります。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、水の一門北方築地塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
27.水の一門西方土塀(Mizu-no-Ichi-mon Seiho-dobei)
延長11.5mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が4か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、水の一門西方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
28.水の二門(Mizu-no-Ni-mon)
水の一門が片開き扉だったのに比べて、こちらは両開き扉となっています。水の一門同様小さな門となっています。天守閣への最短ルートなので、敵兵の進行速度を遅らせるためと考えられます。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、水の二門がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
29.ニの櫓(NI-no-Yagura)
多聞櫓 一重一階の櫓。水ノ二門に付随するように西側に建てられている櫓でカギ型に折れています。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ニの櫓がいつつくられたかは確認できませんでした。 
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
30.ニの櫓南方土塀(NI-no-Yagura Nanpo-dobei)
延長29.3mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が12か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ニの櫓南方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。 
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
31.水の五門南方土塀(Mizu-no-Go-mon Nanpo-dobei)
延長36mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が13か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、水の五門南方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
32.イの渡櫓南方土塀(I-no-Watariyagura Nanpo-dobei)
延長12.3mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が9か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、イの渡櫓南方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
33.イの渡櫓(I-no-Watariyagura)
平櫓 一重一階  姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、イの渡櫓がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
34.ロの渡櫓(RO-no-Watariyagura)
平櫓 一重一階  姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ロの渡櫓がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
35.ハの渡櫓(HA-no-Watariyagura)
多聞櫓 一重一階  姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ハの渡櫓がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
36.ニの渡櫓(NI-no-Watariyagura)
多聞櫓 一重一階  姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ニの渡櫓がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
37.ホの櫓(HO-no-Yagura)
二重櫓 二重二階隅櫓  姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ホの櫓がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
38.ヘの渡櫓(HE-no-Watariyagura)
多聞櫓 折曲一重一階  姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、ヘの渡櫓がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
39.への門(HE-no-mon)
門内側から外に出る門で、への門は高麗門としては小規模で、扉に潜り戸が開けられています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、への門がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
40.への門西方土塀(HE-no-mon Seiho-dobei)
延長4mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が1か所あります。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、への門西方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
41.への門東方土塀(HE-no-mon Toho-dobei)
延長13.6mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が2か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、への門東方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
42.との一門(TO-no-Ichi-mon)
素木(しらき)造りで、門扉は縦格子の半透かし扉ですの古風な門で置塩城からの移築物ともいわれています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、との一門がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
43.との一門東方土塀(TO-no-Ichi-mon Toho-dobei)
延長20.1mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が9か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、との一門東方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
44.トの櫓(TO-no-Yagura)
姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、トの櫓がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
45.トの櫓南方土塀(TO-no-Yagura Nanpo-dobei)
延長8.6mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が3か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、トの櫓南方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
46.との二門(TO-no-Ni-mon)
との二門は高麗門で、との一門と対で「枡形門」を形成しています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、との二門がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
47.との二門東方土塀(TO-no-Ni-mon Toho-dobei)
延長6.5mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が2か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、との二門東方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
48.との四門(TO-no-Yon-mon)
この門も高麗門となっています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、との四門がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
49.との四門東方土塀(TO-no-Yon-mon Toho-dobei)
延長13.6mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が2か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、との四門東方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
50.との四門西方土塀(TO-no-Yon-mon Seiho-dobei)
延長7.6mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が5か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられましたが、との四門西方土塀がいつつくられたかは確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
51.ちの門(CHI-no-mon)
大天守の東側天守台に隣接する小さな曲輪に面する棟門です。門をくぐると内側の左手に番所が隣接され、ここで一人か二人ぐらいの番人が詰めていたものと思われます。 姫路城は1601年から9年かけて建てられました。ちの門はその間につくられたと思われますが、その時期は確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
52.井郭櫓(Iguruwa-Yagura)
平櫓 一重一階  姫路城は1601年から9年かけて建てられました。井郭櫓はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
53.井郭櫓南方土塀(Iguruwa-Yagura Nanpo-dobei)
延長18.4mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が6か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられました。井郭櫓南方土塀はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
54.折廻り櫓(Oremagari-Yagura)
多聞櫓 二重二階  姫路城は1601年から9年かけて建てられました。折廻り櫓はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
55.備前門(Bizen-mon)
柱や梁がすべて鉄板で覆われ、厳重な防御体制が施されています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられました。備前門はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
56.帯の櫓(Obi-no-Yagura)
多聞櫓 一重一階で約23mの石垣の上にコの字に建てられています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられました。帯の櫓はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
57.帯郭櫓(Obiguruwa-Yagura)
二重二階で一階二階ともに3部屋に区切られ、一階には石打棚があります。 姫路城は1601年から9年かけて建てられました。帯郭櫓はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
58.帯郭櫓北方土塀(Obiguruwa-Yagura Hoppo-dobei)
延長16.6m、補強のための控壁2か所、銃を構えるため備えられた小さな窓が5か所あります。 姫路城は1601年から9年かけて建てられました。帯郭櫓北方土塀はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
59.太鼓櫓(Taiko-Yagura)
平櫓 矩折一重一階  姫路城は1601年から9年かけて建てられました。太鼓櫓はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
60.太鼓櫓北方土塀(Taiko-Yagura Hoppo-dobei)
延長35mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が16か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられました。太鼓櫓北方土塀はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
61.太鼓櫓南方土塀(Taiko-Yagura Nanpo-dobei)
延長92mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が13か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられました。太鼓櫓南方土塀はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
62.りの門(RI-no-mon)
帯曲輪と門外に広がる上山里丸をつなぐ、もっとも狭まった部分をおさえる門で、小さな高麗門でへノ櫓と一緒になって要衝をしっかりと締めています。「慶長四ねん 大工五人」と書かれた墨書が発見されており、本物と認められ、1599年に建てられたものであることが判明しています。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
63.チの櫓(CHI-no-Yagura)
二重櫓 二重二階  姫路城は1601年から9年かけて建てられました。チの櫓はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
64.リの一渡櫓(RI-no-Ichi-Watariyagura)
多聞櫓 二重二階  姫路城は1601年から9年かけて建てられました。リの一渡櫓はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
65.リの二渡櫓(RI-no-Ni-Watariyagura)
多聞櫓 矩折一重一階地下一階  姫路城は1601年から9年かけて建てられました。りの門はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
66.ぬの門(NU-no-mon)
扉、柱、冠木などはすべて鉄板で覆われた二重櫓門です。一層目は鉄格子窓、二層目は出格子窓。東側石垣に巨石を置き鏡石としています。 姫路城は1601年から9年かけて建てられました。ぬの門はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
67.ロの櫓(RO-no-Yagura)
多聞櫓 折曲一重一階  姫路城は1601年から9年かけて建てられました。ロの櫓はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
68.ロの櫓西方土塀(RO-no-Yagura Seiho-dobei)
延長11.3mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が5か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられました。ロの櫓西方土塀はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
69.ロの櫓東方土塀(RO-no-Yagura Toho-dobei)
延長7.6mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が2か所あります。姫路城は1601年から9年かけて建てられました。ロの櫓東方土塀はその間に造られたと思われますが時期については確認できませんでした。
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
70.化粧櫓(Kesho-Yagura)
二重櫓 二重二階 17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
71.化粧櫓南方土塀(Kesho-Yagura Nanpo-dobei)
延長14.2mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が3か所あります。17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
72.カの渡櫓(KA-no-Watariyagura)
多聞櫓 一重二階櫓  17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
73.ヌの櫓(NU-no-Yagura)
多聞櫓 二重二階櫓  17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
74.ヨの渡櫓(YO-no-Watariyagura)
多聞櫓 一重一階櫓  17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
75.ルの櫓(RU-no-Yagura)
多聞櫓 二重二階櫓  17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
76.タの渡櫓(TA-no-Watariyagura)
多聞櫓 一重一階櫓  17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
77.ヲの櫓(WO-no-Yagura)
多聞櫓 二重二階櫓  17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
78.レの渡櫓(RE-no-Watariyagura)
多聞櫓 一重一階櫓  17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
79.ワの櫓(WA-no-Yagura)
二重櫓 二重二階隅櫓  17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
80.ワの櫓東方土塀(WA-no-Yagura Toho-dobei)
延長54.5mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が27か所あります。 17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
81.カの櫓(KA-no-Yagura)
二重櫓 二重二階隅櫓  17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)
82.カの櫓北方土塀(KA-no-Yagura Hoppo-dobei)
延長70.9mで、銃を構えるため備えられた小さな窓が32か所あります。17世紀初め
重要文化財指定年月日:1931.12.14(昭和6.12.14)

以上が世界遺産に登録されている姫路城の建造物の一覧です。

姫路城の基本情報

豊臣秀吉が中国攻めを開始した際黒田官兵衛から提供された姫路城は、関ケ原の戦い以降徳川家康の命を受け池田輝政の時代に本格的に大改修されました。

入城料

個人
大人(18才~):1000円
小人(小学生・中学生・高校生): 300円
団体(30人~)
大人:800円
小人:240円
姫路城・好古園共通券
大人(18才~):1040円
小人(小学生・中学生・高校生):360円

※小学校就学前は無料です。
※小学校・中学校・高校の教育旅行については、生徒15人につき引率教師1人は無料となります。
※障害者手帳をお持ちの方は、本人と介助者1名が無料となります。ただし、車いす利用の場合は、本人と介助者3名までが無料となります。

開城時間
午前9時00分から午後5時00分まで(閉門は午後4時00分)
休城日
12月29日・30日
所在地
〒670-0012 姫路市本町68番地
問い合せ先
(姫路城管理事務所)
電話 079-285-1146
FAX 079-222-6050

姫路城公式サイト

姫路城公式サイト:トップページ

日本の城について

ここで少しだけ日本の城について説明しておきます。

天守の形式

戦国の戦いでは城は天守に攻め込まれれば落城とする暗黙のルールがありました。そのためいかに天守を守るかが重要で、天守の形式によりその方法が垣間見えるようです。

  • 独立式天守 天守を単独で建てたもので、もともとはこの形が主流。(弘前城・丸岡城 他)
  • 複合式天守 天守の入り口を守るために付櫓を附属したもの。(犬山城・彦根城 他)
  • 連結式天守 入り口のみならずさらに防衛力を高めるために左右に小天守や櫓を繋げたもの。(松本城)
  • 連立式天守 さらに対角線上にも櫓を作り中央部を口の字型にし、天守曲輪を作ったもの。(姫路城・和歌山城)

城郭用語

もともと城は「軍事的目的のために建てられ、敵を防ぐための建造物」でした。城の構造や、城郭用語を知ると城がいかに防御や攻撃を意識して造られているかがわかります。天守閣が城の象徴のように感じられますが、実は天守閣のないものも多く存在し、天守閣=城というわけではありません。天守は敵を見るためには優れていましたが、敵からの目標を定めやすいため防御には向かず、あえて天守を設けない城もあったようです。

大手門

城の正面を「大手」裏面を「(からめ)()」と言います。 大手門は表門にあたり、裏の門を搦手門と言います。ちなみに門の形式で一番格式高いものは2階建ての櫓門です。

曲輪

城内に堀や土塁などで区画されて設けられた平たんなスペースの事で、郭(くるわ・かく)も同じ意味です。また、本丸などの丸も同じ意味で使われます。ちなみに、本丸はひとつの城において最重要かつ中心となる曲輪のこと。

曲輪の周囲に掘られた溝のことで、敵が城に侵入するのを防ぐために造られました。

狭間

狭間は壁や塀に設けられた攻撃用の穴で、弓を射る「弓狭間」と鉄砲を撃つ「鉄砲狭間」があります。

石落とし

1階の床を張り出すように設置され、石垣を登ってくる敵に石を落としたり鉄砲を放ったりする装置です。

破風

天守や櫓の壁面を彩る三角形の屋根を妻部分の事です。「入母屋破風」「切妻破風」「千鳥破風」などがあります。「唐破風」は神社などに使われ、格式が高い形状となります。

敵の監視や攻撃、戦時物資の収蔵などの役割をかね備えた建造物の総称です。二十櫓が一般的で三重櫓は幕府系の城に限られました。天守のない城では天守の代用にもなっているようです。

桝形

壁や土塁などで囲まれた空間を指します。防御力が高まることから、戦の際の主要な出入り口となる虎口に設けられることが多く、虎口の形態としては最も発達した形式と考えられます。