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世界遺産(文化遺産)№7「古都奈良の文化財」

「古都奈良の文化財」の世界遺産登録基準(平成10年記載)

登録基準(2)(3)(4)(6)
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
具体的には、
(2) 古都奈良の文化財は日本建築と日本美術の進化のひときわ優れた証拠性を有しており、それらは中国と朝鮮との文化的つながりの結果であり後世の発展に重要な影響を与えることになった。
(3) 奈良の建築遺産は、奈良が首都であった時代に開花した日本文化の唯一の証左である。
(4) 奈良における皇室宮殿の配置と現存文化財の設計は、初期アジアの首都群の建築と都市設計に関するきわだった例である。
(6) 奈良の仏教寺院と神社は、ひときわ優れた形で宗教の連続的な力と影響を証明する。
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 古都奈良の文化財

奈良は、710年から784年まで日本の首都であり、政治・経済・文化の中心として栄えました。この時代に中国(唐)との交流を通して日本文化の原型が形成され、首都が京都へ移った後も、大社寺を中心とした地域が宗教都市として存続し、繁栄しました。これらの文化遺産には宮跡・寺院・神社があります。世界遺産としての「古都奈良の文化財」には、以下のものがあります。

東大寺

〒630-8211 奈良県奈良市雑司町406−1

東大寺は、724年に即位し仏教を深く信仰した聖武天皇の発願で建立されました。743年に聖武天皇が盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造立の詔を発令し、その大仏を安置する寺として751年に金堂(大仏殿)が完成、翌年には大仏が開眼し、奈良時代末までに大仏殿を中心とする大伽藍が築かれました。都が長岡へ移ったあとも歴代天皇の手厚い保護を受けて、興福寺とともに栄華を誇りました。その後平安末期と戦国時代の2度の戦乱に巻き込まれ、いずれも復興を遂げ、現在の伽藍の多くは江戸時代に再興されたものです。

興福寺

〒630-8213 奈良市登大路町48

興福寺は、前身の寺院が699年に創立されたのを起源とします。710年平城遷都に伴って藤原不比等により創建され、藤原氏とともに栄えました。藤原氏の氏寺ですが、主要堂塔の建立の発願は天皇や皇后によるものが多数をしめます。これは藤原氏と朝廷との密接な関係を示すもので、造営工事も朝廷の直営で行われました。たびたび火災にあって伽藍を焼失してきましたが、都度奈良時代の様式で再建されてきました。

春日大社境内

〒630-8212 奈良市春日野町160

春日大社の創立は、社伝では768年と伝えられますが、実際には奈良時代初めに遡ると考えられています。古くから神の降臨する山として神聖視されていた春日山・御蓋山の西麓に、藤原氏の氏神を祀ったもので、藤原氏や朝廷の崇敬を受けて繁栄しました。

春日山原始林

奈良市春日野町ほか

春日大社の東方に広がる、総面積約250haの春日山は大社の神山として841年に狩猟と伐採が禁止されたため、現在まで原始林が保たれてきました。明治になって国有地となり、奈良公園に編入された後、春日山原始林として1924年に天然記念物に、1955年には特別天然記念物に指定されました。また1998年には世界遺産にも登録されました

元興寺

〒630-8392 奈良市中院町11

前身は6世紀末蘇我馬子によって開かれた日本初の本格的寺院、法興寺(飛鳥寺)でしたが、平城遷都に伴い718年に現在地に移設され、元興寺と改められました。かつては南都七大寺の一つとして威勢を振い、現在の奈良市街の南東部を占めていました。寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいましたが、現在では僧坊の一画が唯一現存しています。極楽坊はかつての元興寺僧坊の一部で、鎌倉時代に極楽堂と禅室に改築されました。境内からは無数の石仏と民俗資料が発見されて、法輪館には奈良時代の木造五重小塔・木造阿弥陀如来坐像・智光曼陀羅図・庶民信仰資料などが多数保存されています。

薬師寺

〒630-8563 奈良市西ノ京町457

薬師寺は680年に天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈り藤原京にて創建され、718年に藤原京から平城京に移されました。移転については、伽藍、仏像を全部そのまま移したという説と、寺院の名籍だけを移し、伽藍や仏像は新しく造立したという説があります。幾度かの火災にあって次々と焼失し、創建当時の姿を残すのは東塔のみです。しかし、昭和から平成にかけて西塔や中門、回廊、玄奘三蔵院伽藍、大講堂が落慶し、今も白鳳伽藍の復興を目指して再建が進められています。

唐招提寺

〒630-8032 奈良市五条町13-46

唐招提寺は、聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧・鑑真が戒律を学ぶための寺として759年に故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招提」と称し、戒院として教学の場を営むことになりました。教義上、立派な伽藍よりも、住むに足るだけの僧坊・食堂と、仏法を講じる講堂が何をおいても必要であったことから、これらの建物が最初に建てられ、鑑真の没後、奈良時代末に金堂が完成し、810年には五重塔が建立され、順次伽藍が整いました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招提」から「唐招提寺」となりました。

平城宮跡

〒630-8577 奈良市佐紀町

710年、遷都により壮大な都市計画のもと、かつてない規模で道路・市街地・宮殿・寺院などが造営され、794年の平安京遷都後も寺社の多くは旧都に残されました。東西1.3km、南北1km、面積130haの内部には国の政治や儀式を執り行う大極殿・朝堂院、天皇の居所である内裏、行政機関である各役所などがありました。当時の宮殿や役所などの木造建築の遺構は今でも地下に良好に保存されています。

奈良の地形

奈良が都となっていたころ、奈良盆地には大きな湿地湖が広がっていました。大和川は奈良盆地から大阪湾に流れ出ていました(現在は人口の水路により堺市へ流れています)。そして、大阪平野の奥まで海と川が混じる湿地帯が広がっていました(大阪平野は当時は湿地帯だったようです)。中国大陸から生駒山麓まで船で簡単に移動ができる便利の良い土地だったようです。しかし、大和川流域は資源が少なく、人が増えると、この小さな奈良盆地の水と森林では支えきれるものではありませんでした。森林がの木が少なくなるとともに山は荒廃し、それに伴うように都は奈良から京都へ移っていったようです。(『日本史の謎は「地形」で解ける』より抜粋)