ヘリテージ~受け継ぐべきもの

将来に遺したい日本の宝について

日本で唯一の負の世界遺産「原爆ドーム」(平成8年記載)

原爆ドーム 

 

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
基準(6)のみの適用で登録されているのは例外的なケースだが、比較的歴史の浅い負の世界遺産にはしばしば見られる傾向である。
 
『原爆ドーム出典』: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

資産の範囲

[面積]        

資産面積 0.4 ha
緩衝地帯面積 42.7 ha
合計 43.1 ha
広島県広島市中区国泰寺町1-6-34


資産の周辺地域は「平和記念公園」となっており、緩衝地帯を流れる河川は、河川法によって国が管理しています。ドームは、文化財保護法の規定により、国の史跡に指定されています。広島市の所有で、広島市により管理が行われていますが、平和記念公園の周囲については「原爆ドーム及び平和記念公園周辺建築物等美観形成要綱」が定められ、現状を変更する場合は、国の許可が必要で、復旧を行う場合でも国に届け出しなければいけません。広島市は、専門家を配置してドームの保存管理に当たらせるとともに、3年ごとに健全度調査を実施し、保存状況をチェックしています。

平和記念公園(原爆ドーム含む)の概要

広島に原爆が投下されたことはあまりにも有名ですが、原爆ドームは、その際破壊された「広島県産業奨励館」の残骸を、当時の姿のまま今日に伝える資産です。従い、人類が初めて被った核兵器の惨禍の跡を留める資産であり、人類が忘れることのできない歴史的記念的意義を有する資産として、世界遺産条約第1条の規定する記念工作物に該当しています。

公園内には広島市の管理事務所があり、文化財保護の担当機関である市教育委員会との連携を取りつつ、ドームの日常管理を行っています。
ドームをはじめ、犠牲者を慰霊する記念碑等には、それぞれ説明板が設けられ、平和記念公園内の広島平和記念資料館には、被爆の惨状を示す犠牲者の遺品等が多数展示されています。
諸種の国際交流活動のために広島国際会議場が設置されており、これまでに国連と軍縮シンポジウム、国連軍縮会議、世界平和連帯都市市長会議、女性国際平和シンポジウム等の多くの国際会議が開催されいます。
そのほか、公園内には、休憩施設が1箇所、公衆便所が5箇所、駐車場が2箇所設けられています。

原爆ドームの歴史

戦前
広島市は、中国山地から南流する太田川の三角州を中心に発達した都市であり、南は瀬戸内海に面し東・北・西は山地に囲まれ、伝統工業のほか軍需に結びついた近代工業が発達し、特に日露戦争を契機として、大量の軍需品の地元調達が行われたことなどによって、経済は活況を呈しました。1910年、広島県会は同県の産業振興のため、広島県物産陳列館の建築を決定し、設計をチェコ人の建築家ヤン・レツルに委嘱して1914年太田川の分流元安川の東岸に起工、1915年に竣工しました。その後、名称を広島県産業奨励館と改められています。ここは博物館・美術館の役割も果たし、広島の文化振興の場としても大きな役割を担っていました。
戦時

日本は1930年代から中国と戦争状態にあり、第2次世界大戦の開始後、1941年には太平洋及びアジア各地に戦域を拡大していきました。1945年になると、アメリカ軍による本土爆撃の激化や沖縄上陸によって、日本の敗色は濃くなっていきました。アメリカ・イギリス・中国によるポツダム宣言発表の後、8月6日広島市に原子爆弾が投下されました。テニアン島を発進した米軍 B29爆撃機3機が広島市上空に侵入し、午前8時15分に原子爆弾を投下しました。爆弾は上空約 580メートルで爆発し、爆風と猛火により、爆心地から半径約2キロメートル以内の建物は木造も鉄筋コンクリートもすべて全壊・全焼し、半径約2.8 キロメートル以内の建物が全壊、半径約4キロメートル以内の建物が半壊しました。これは、当時の広島市のほとんど全域が半壊以上の損害を受けたということです。
「広島県産業奨励館」は、広島市内の元安川東岸に建つ、一部鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、全体は3階建て、石材とモルタルで外装が施され、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドームが載せられていました。原爆により、建物 の屋根や床はすべて破壊され、壁は建物の大部分において1階の上端以上が全て倒壊しましたが、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れましたが、この建物の中にいた約30名の職員は全員即死しました。

このときの被害状況として、約14万人が死亡し(1945年12月末まで、広島市調査)、負傷者は数知れず、戦後50年を経過した今日もなお、放射線の後遺症に苦しむひとがいます。
8月8日ソ連が日本に宣戦を布告、8月9日長崎市に原子爆弾が投下され、日本はポツダム宣言を受諾して、8月15日第2次世界大戦は終結しました。
戦後 
第2次世界大戦後、広島市の復興が進む中で、爆心地近くに唯一残された旧広島県産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋鉄骨の形から、いつしか人々によって原爆ドームと呼ばれるようになりました。1953年、広島市の申請に基づき、県から市に譲与され、1966年に広島市議会がドームの保存を決議しました。
ドームは2回の保存工事を経て、被爆当時の惨禍の姿をそのまま今日に伝えています。ドームを基軸とする平和記念公園の建設は、1950年から始まり、1964年に完成しました。平和記念公園には、原爆死没者慰霊碑(正式名称:平和都市記念碑)をはじめ、原爆供養塔、原爆の子の像等の犠牲者を悼む多くの慰霊碑が設けられており、また広島平和記念資料館において、多数の遺品等が展示されています。


参考:文化遺産オンライン

まとめ

原爆ドームは、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝えるものであり、時代を超えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑です。統計によると、資料館への来訪者は年間約140万人、うち約45万人が平和学習のために訪れる修学旅行生、約7万人が外国人だといいます。ここに訪れたことのない人でも、ここの映像や写真を見ていることでしょう。
原爆ドームの存在が、戦争を憎み、再び、未来永劫この惨劇を繰り返してはならないと世界に向けて発信していると感じますし、これからもずっとその存在価値を発揮してほしいと思います。

※タイトルで負の世界遺産としていますが、この「負の」と謳われているのは日本だけです。世界的には「負の」という考え方はありませんのでここに記載しておきます