ヘリテージ~受け継ぐべきもの

将来に遺したい日本の宝について

琉球王家最大の別邸「識名園(しきなえん)」

識名園とは

1799年に造営された琉球王家最大の別邸です。1941年、国の名勝に指定されましたが、1945年第二次世界大戦で甚大な被害を被り、1976年に再指定されました。2000年には国の特別名勝に指定され、日本庭園文化において琉球地方で確立した独自の庭園デザインを示す貴重な事例として「設計された文化的景観」に該当するとして同年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとしてユネスコの世界遺産に登録されました。

1975年から1996年まで、遺構調査に基づいた綿密な修復工事が行われました。

識名園(しきなえん)が果たした役割

王家別邸の林泉庭園として1799年に築庭され、首里城の南にあることから南苑ともよばれました。王族の保養の場としてだけなく、中国皇帝の使者である冊封使を饗応する場所としても利用され、国の外交面において重要な役割を果たしました。

識名園の建造物

庭の地割には17~18世紀の日本庭園の影響が、池の建物には中国の影響がそれぞれ伺えますが、全体的には琉球独自の構成や意匠を主体としています。池を中心とする廻遊式の庭園で、池の周囲に御殿・築山・花園が置かれ、池には小島が2つあり、中国式のアーチ型の橋が架かっています。小島のひとつには中国風の六角堂が建てられています。池を廻遊する園路には高低差がつけられ視野に変化を付ける工夫が施されています。

正門

王族や中国皇帝の命をうけた冊封使はこの門から出入りしていました。屋門(ヤージョウ)と呼ばれる瓦屋根をのせた門構えとなっていて、当時は非常に格式の高い屋敷にのみ許されていました。

番屋

番人の詰所でした。

育徳泉

池の北岸西部にある識名園の池の水源のひとつで、冊封正使・趙文楷の筆になる二つの石碑が建っています。ここに生える淡水産の紅藻類「シマチスジノリ」は国の天然記念物です。

御殿

当時の王国の上流階級にだけ許された赤瓦葺の木造平屋建てで、軒などに琉球地方独特の民家風の趣が取り入れられています。御殿には15の部屋があり、雨や湿気に強い槙の木で作られています。

池/六角堂

識名園の池は「心」の字を模した形をしていて、「心字池」と呼ばれます。池の小島に六角形のあずまやが建てられています。中国風の建築で、屋根の形や瓦を黒く色付けているところからその様子がうかがえます。

中国風の石橋

池の中にある小島に大小2つの石橋があり、ともに橋の中央が高くなったアーチ形の中国風のデザインとなっています。

識名園(しきなえん)の見学について

住所
〒902-0072 沖縄県那覇市字真地421-7

Google マップ

 電話
098-855-5936
観覧時間
4月1日~9月30日 午前9時~午後6時(入場締め切り 午後5時30分)
10月1日~3月31日 午前9時~午後5時30(入場締め切り 午後5時)
休園日
毎週水曜日
(その日が休日又は「慰霊の日」(6月23日)のときは、その翌日)
観覧料
大人:400円(団体320円)
小人(中学生以下):200円(団体160円) 
※団体扱いは20名以上。
※小学校就学未満かつ保護者同伴時の場合無料。

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

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写真AC様より使わせていただきました

首里城歓会門と守礼門との間にあり、国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君(きこえおおきみ)の最高神女(のろ)即位式の時も、まず最初に拝礼したといわれ、いわば国家の聖地で、形は門になっていますが人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」ともいうべき場所です。八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造したものと伝えられています。中央に掲げられている扁額から第二尚氏王統の尚真王の時代、1519 年に築造されたことが分かります。

扁額には「首里の王おぎやかもいがなし御代にたて申候、正徳十四年己卯十一月二十八日」と書かれています。このおぎやかもいというのが尚真王の神号*1です。

1933年1月23日旧国宝に指定されましたが、沖縄戦の戦禍によって王城などとともに一部が破壊し、指定解除されました。その後、1957年に復元され、さらにその後解体修理し1986年に完成しました。園比屋武御嶽石門は1972年にあらためて国の重要文化財に指定され、2000年11月首里城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

施設情報

【住所】
〒903-0816 沖縄県那覇市首里真和志1-7 付近 首里城公園内
【TEL】】
098-917-3501
【営業時間】
24時間見学可能
【料金】
入場無料

園比屋武御嶽石門の構造

日本と中国の木造建築に見られる様式をすべて石造り(琉球石灰岩)で表現しています。軒は石造りながら垂木を張り出し、屋根は木造板葺きを表しています。屋根の両妻から軒先までは日本の寺院に良く見かける曲線を持つ和風、棟飾りは火焔宝珠(かえんほうじゅ)やシャチをかたどった鴟尾(しび)が配されるなど中国的要素も兼ね備ええています。アーチ門も一見すると石をかみ合わせた構造に見えますが、石の弓型状に削った手の込んだものです。さらに、両側の石しょうが中央に向かってすぼまり、床は中央で盛り上がって、目の錯覚を利用した遠近法が用いられています。

王統ゆかりの神を祀る森

石門の背後には自然に生まれた、御嶽(うたき)と呼ばれる聖地が広がります。琉球の祈りのかたちは、日本とは違い、人々にとって神聖な場所は寺や神社ではなく、石や木に宿るとされます。この御嶽には、王家ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を分霊してまつっています。人々は石門ではなくこの御嶽に祈りを捧げています。

 

 

 

 

*1:王に即位するときに神女から神の託宣として授けられる名前の事

人工的建造物のない神の宿る場所「斎場御嶽」

斎場御嶽せーふぁうたき について

斎場御嶽は琉球の祖神アマミキヨが国始めに作った七御嶽のひとつとされています。「斎場」とは「霊威の高い聖なる場所」「最高位」の意で、「御嶽」とは琉球の信仰における祭祀などを行う施設で「聖地」の総称です。「斎場御嶽」は、王国最高の御嶽とされ、中央集権的な王権を信仰面、精神面から支える国家的な祭祀の場として重要な役割を果たしました。御嶽の創設年は定かではありませんが、15世紀前半には国王がこの御嶽に巡幸していたようです。 人工的な建造物はなく、うっそうとした樹木とむきだしの岩山そのものが神の宿る存在として拝まれていました。戦前までは、男子禁制であった聖地ですが、現在では多くの人が参拝に訪れています。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコ世界遺産に登録されました。

斎場御嶽参拝について

斎場御嶽は神聖な場所なので、訪れる際は、聖地であることを忘れず、敬う心構えでお祈りしましょう。また、沖縄の昔からの言い伝えで、神聖な場所のものを持ち帰ると不幸が訪れると言われているそうです。

【住所】南城市知念字久手堅270-1
【TEL】098-949-1899

斎場御嶽の入場チケットは現地では販売されていないので、「南城市地域物産館」であらかじめ購入しておきましょう。

◆営業時間(開館時間)◆
【3月~10月】9:00~18:00(最終入館:17:30)
【11月~2月】9:00~17:50(最終入館:17:00)
◆入場チケット販売時間◆
【3月~10月】9:00~17:15まで
【11月~2月】9:00~16:45まで
◆入場料◆
大人(高校生以上):300円
小人(小・中学生):150円
団体:200円(※20名以上)
◆斎場御嶽休息日◆
自然保護の観点から毎年2回、旧暦5月1日〜3日、および旧暦10月1日〜3日を休息日としています。
【2021年】6月10日~6月12日 / 11月5日~11月7日

 ※身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている方は、券売所窓口にて手帳を提示すると無料となります。

 

王国時代の斎場御嶽

琉球王国の最高神女(のろ)である聞得大君(きこえおおきみ)は国の祭祀をまとめる重要な役割を担っており、王族の女性がその地位に就きます。国の最高神職に就任する重要な儀式である「お新下り」の祭祀場としての主会場が斎場御嶽です。首里城から出発し、南風原・与那原・佐敷を経由して斎場御嶽に着くまでの各地方の神役(かみやく)たちが参列する国の大きな行事でした。また、国家の繁栄や五穀豊穣を祈願して国王が御嶽を巡礼する「東御廻り(あがりうまーい)」の重要な参拝地でもありました。国の吉凶を占う儀式も行われた、琉球王国最高の聖地です。

斎場御嶽の見どころ

  1. 緑の館・セーファ
    御嶽に入る前に琉球王国の歴史とともに斎場御嶽の概要についてビデオ視聴ができます。注意事項の確認、神聖な場所であることを再認識することができます
  2. 御門口(ウジョウグチ)
     斎場御嶽に入る参道の入口で、その入口の右側には6つの香炉が置かれ、内部にある拝所の数を示しています。かつてはここから先は神事をする人しか入ることができなかったので、それ以外の人はここで6つの香炉に向かって祈りを捧げていました。
  3. 大庫理(ウフグーイ)
    石畳の参道を登っていくと、隆起した巨大な岩があります。大広間や一番座という意味をもつ、祈りの場所です。首里城の部屋と同じ名前を持つ拝所の一つ
  4. 寄満(ユインチ)
    第2の拝所で、王府の言葉で「台所」を意味しますが、ここでの意味は、当時貿易で栄えた琉球王国に寄せられ、満ちた交易品の数々が集まった場所とされています。首里城の部屋と同じ名前を持つ拝所 
  5. シキヨダユルアマガヌビーとアマダユルアシカヌビーの壺
    第3、第4の拝所です。三角岩の手前には二本の鍾乳石があり、その真下に「シキヨダユルとアマダユルの壷」が置かれています。この鍾乳石から滴る水滴は聖なる水とされていて、シキヨダユルアマガヌビーは聞得大君の就任儀式用の霊水として、アマダユルアシカヌビーは、首里に運び王子の健康祈願に使われました。
  6. 三庫理(サングーイ)
    2枚の巨岩が寄りかかってできた三角の岩の奥から光が差し込み幻想的な雰囲気があります。右側にみえる香炉付近は、チョウノハナと呼ばれる拝所です。琉球王国最高の神女「聞得大君(きこえおおきみ)」と関係がある場所と言われ触ることは禁止されています。この岩の隙間を抜けると、左手に久高島が望める場所となります。
  7. 神の島「久高島」
    歴代の琉球国王たちは時折、久高島で参拝しており今でもこの島では神秘的な祭事が行われています。男性禁止の場所が残っていたり、島にある石や貝殻を島外に持ち出すことが禁止されていたりと島には神様が宿っていると考えられています。

まとめ

「斎場御嶽」はパワースポットだと聞いたことがありますが、ここは観光気分で行くことは許されない場所のように感じました。斎場御嶽は今でも沖縄の人々にとって神の宿る大切な祈りの場です。緑の館・セーファで注意事項をきちんと確認し、できればガイドさんと一緒に周るのが安心なようです。

 

世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつ玉陵

玉陵(たまうどぅんについて

玉陵は第二尚氏の一族を葬った墓です。1501年頃、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となったと言われています。国王が祖先崇拝信仰を国内統治に利用するために、墓を造ったと推測されています。

墓の構造

全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓は首里城をモデルにしたといわれ、前面にレリーフが施された高欄がめぐり、墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となり、創建当初の東室には洗骨後の王と王妃を安置、西室は王族など限られた家族が葬られていました。 墓庭は、ほぼ中央部で東西に二分され、清めのためのサンゴ片が敷かれています。16世紀初頭の琉球地方において確立された独自の石造建物の意匠を示す貴重な事例です。沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。

1972年5月に玉陵墓室石牆(たまうどぅんぼしつせきしょう)が国指定有形文化財建造物に、玉陵は国指定記念物史跡に指定、2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。2018年12月には、玉陵が建造物として正式に国宝に指定、沖縄県内で建造物の国宝指定は初となります。

施設情報

【住所】〒903-0815沖縄県那覇市首里金城町1-3

【電話番号(問い合わせ)】098-885-2861

【営業時間】9時~18時

【定休日】無休

【利用料金】大人 300円、小人 150円

※小学校就学前は無料(保護者同伴に限る)

奉円館(ほうえんかん

世界遺産 玉陵の歴史をはじめ、玉陵の内部の様子などの説明があります。玉陵見学前にチェックすると良いようです。

玉陵のシーサー

墓室の屋根には3体の直立シーサーが立っています。すべて入口門の方向を見て守り神の役目を果たしています。直立のシーサーは沖縄でも珍しいそうです。

琉球王国の象徴「首里城」

首里城

琉球王国の政治、外交、文化の中心地として威容を誇った首里城は、1945年の沖縄戦で灰燼に帰し、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して国営公園として復元されました。 また、中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的・歴史的な価値があるとされ、首里城跡は2000年12月に、日本で11番目の世界遺産として登録されました。世界遺産に登録されているのは首里城跡となっており、本殿の下の「遺構」、石積みの部分に世界遺産の価値が認められているのであって、地上の建物は世界遺産には含まれていません。

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鮮やかな朱色に彩られた姿は、王国の歴史や文化を伝え、沖縄のシンボルといえるでしょう。

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首里城の火災

首里城が造られた年代は明らかではありませんが、これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半のものであると判明しています。 首里城は沖縄戦や火災などで再建を繰り返し、戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなっていましたが、大学移転後、1715年から1945年までの姿を基に復元事業が推進され、1992年1月に完成しました。しかし2011年10月31日に5度目の焼失となりました。正殿と北殿、南殿が全焼したほか、合わせて7棟の建屋、延べ4,800平米が焼失、原因は解明されていません(2020年7月時点)。

首里城再建

政府は、首里城正殿の再建に関し、首里城正殿を2026年完成を目指す方針を固め、22年から再建へ向けて本格着工するとしました。
首里城火災に対する支援金
沖縄県のホームページでは修復再建に向けた支援の受付について下記ページで紹介しています。

首里城の歴史

首里城が造られた年代について、これまでの発掘調査などの成果から14世紀中葉から後半のものであると判明しています。
1322年ごろから1429年
(三山時代)、南部の南山(山南)・中部の中山・北部の北山(山北)三つの政権が、覇権を競う
1429年
尚巴志(しょうはし)が、「南山・中山・北山」の3つに分かれていた国を中山王武寧を攻め滅ぼして初めて琉球(沖縄)を統一することに成功、首里城を王家の居城として用いると同時に首里は首府(国の統治機関が置かれている都市)とする
1453年
首里城は志魯・布里の乱(王位争い)の時全焼し、3年後には再建されたようです。(一度目の焼失)
1609年
慶長の役で薩摩藩(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)が3000人の軍勢をもって琉球王国に侵攻し首里城を占拠
1660年
第10代尚質(しようしつ)王の時代、失火により焼失(二度目の焼失)
※再建には11年もの歳月を要したと言われています。
1709年
火災が原因で、正殿・ 北殿・南殿などが焼失(三度目の焼失)
1853年
浦賀を訪れる前のペリーが一足先に来航し、首里城を訪問
1872年
琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰 (しょうたい) が藩主となる。中国(清)も、琉球王国に対する宗主権を主張。

1879年
明治維新によって成立した日本政府により、琉球王国の最期の王である尚泰(しょうたい)が追放され琉球王国は滅亡、沖縄県が誕生

1879年~1896年
沖縄県駐屯の「熊本鎮台沖縄分遣隊」の兵舎として使用される
1897年~1945年
首里市立女子工芸学校・沖縄県立工業徒弟学校・首里第一尋常小学校などの校舎として利用される
1925年
首里城の正殿が国宝に指定、昭和の大改修が行われた
1945年
太平洋戦争の際には、日本軍の駐屯地・各種の学校等として使用されていたが、アメリカ軍の攻撃を受けて全焼(1945年5月25日から3日間、アメリカ軍艦ミシシッピ等から砲撃を受け続け、27日に焼失したと言われています)(四度目の焼失)
※戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとして使用されましたが、大学が移転され、首里城の復元事業がすすめられた
1958年
守礼門が再建されたのを皮切りに周辺の建築から再建が始まる。
1972年
首里城跡は国の史跡に指定され、城の入り口に当たる歓会門や周囲の城郭が再建された。
1979年
琉球大学が首里城跡から移転が確実となり、首里城再建計画により本格的な復元がはじまる。
1992年
正殿を中心とした建築物群やそこへ至るまでの門の数々と城郭が再建され、『首里城』は復元
2000年
『首里城跡』として、他のグスク(沖縄の城)などと『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の名称で世界遺産に登録される。
2019年
火災により焼失(五度目の焼失)

首里城公園

園内には、守礼門や園比屋武御嶽石門、円覚寺跡などの文化財が点在しています。『首里城公園』内は大変広い敷地ですが、順路がある程度決められているため、1時間~1時間半程度の所要時間で見学することができます。また、『首里城』では、日没から24時まで、毎日城郭のライトアップを行っています。
開園・開場時間(対象区域: 歓会門、木曳門、久慶門)
4月~6月:8:00~19:30
7月~9月:8:00~20:30
10月~11月:8:00~19:30
12月~3月:8:00~18:30
休場日
首里城公園施設の一部休場日: 7月の第1水曜日とその翌日
休場対象施設:首里杜館(レストラン、売店、地下駐車場を含む)
お問合せ先
首里城公園管理センター
TEL:098-886-2020  FAX:098-886-2022
※料金については、首里城の火災により現在、有料区域については立ち入り禁止となっています。
※今回の写真はすべて「フリー写真素材フォトック」様よりダウンロードさせていただきました。

沖縄の城の中でも最も古い「勝連城(かつれんじょう)」

勝連城(かつれんじょう 跡~沖縄の世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(平成12年記載)

中城城と海を隔てて向かい合うように立つ勝連城は、海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利(あわまり)が居城したとして有名で、眺望のきく北から西、さらに南側は険阻な断崖を呈した地形を利用して築城されています。城壁の石はかなり持ち去られましたが、復元工事で姿を取り戻しつつあります。

勝連城の基本情報

開園時間
午前9時~午後6時
 
年中無休
 
入園料
無料
住所
〒904-2311 沖縄県うるま市勝連南風原3908
TEL: 0989787373 FAX :098-923-2179

勝連城の見どころ

沖縄には様々な神が存在し、勝連城は、これらの神が祀られている場所である「御嶽(うたき)」が多く存在する神聖な場所です。

一の曲輪

一の曲輪の城門は、周辺から出土した石材から、捲まき髭ひげ状の浮き彫りが施されたアーチ型の門であったと考えられています。一の曲輪には貴重品を保管する倉庫があったとされています。

玉ノミウジ御嶽

一の曲輪にあり、按司の守り神を祀った拝所で、大きな岩は勝連を守る霊石です。ここでは、村の繁栄が祈願されていました。

殿舎跡

首里城正殿のような柱の多い構造で、礎石のあるしっかりとした造りであったことが分かっています。勝連城の城郭内で、最も重要な建物であったと考えられています。

二の曲輪

城の中で最も重要で、今でいう役所のような役割をしていたようです。東西14.5m、南北17m規模の舎殿跡があり、覆土によって遺構を保存しています。

ウシヌジガマ 

二の曲輪にある洞穴で、ガマとは洞穴の事。天災や戦争のとき、ここに身を潜めて難を逃れていたようです。調査の結果このガマは外部への通り抜けはできず単なる洞穴と判りました。

ウミチムン(火の神)

二の曲輪にあり、城の台所であったと考えられています。

3の曲輪 城門

儀式などを執り行う広場として使われていました。二の曲輪の前庭部になっています。

肝高の御嶽 

三の曲輪にあり、城内へ登城するときの控場所でした。王国時代から続く「ウマチー」という年中行事の拝所です。

すり鉢状遺構

三の曲輪中央部で発見されました。「飲み水を溜めていた」とする説や、「儀式に使われていた」とする説など様々あり、未だ解明されていません。

マチダ・ナケージガー 

王国時代より神々と繋がる泉(カー)として、祈りの場であると考えられています。

ミートゥガー(井戸)

かつてこの泉が、男女の逢瀬の場であったという伝説から「縁結びの井戸」とされています。

ウタミシガー(井戸) 

旧正月の元旦に水量を見て、その年の作物の出来を占っていた井戸だと言われています。少ないと豊作でおおいと凶作だそうです。

南風原御門 

本来の正門とされています。

まとめ

勝連城は、約100mの丘陵上に建ち、最上部の曲輪からは太平洋が一望できます。見る角度によってはヨーロッパのお城のようにも見えると言います。沖縄で最も古いとされる勝連城。はるか昔を思いながらこの地を歩いてみたいと思いました。

最も多くの遺構が当時の姿で残る「中城城」

中城城(なかぐすくじょう跡~沖縄の世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(平成12年記載)

中城城の築城は不明ですが、14世紀後半に先中城按司が数世代にわたって築いたとされています。1440年ごろ、勝連城主である阿麻和利を牽制するために、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が、勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築しました。護佐丸滅亡後、中城城は王府の直轄地となり、琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たしました。

中城城跡基本情報

事務局住所
〒901-2314 沖縄県中頭郡北中城村字大城503
電話: 098-935-5719 Fax: 098-935-1146
休園日
年中無休となっております。
(ただし中城城跡の観覧につきましては、お客様の安全確保等の為、気象状況や城跡内の整備、 各種イベント等により、観覧を制限する場合もあります。)
閲覧時間
8:30~17:00
5月~9月の間は18:00まで
料金
大人400円 (団体300円)
中/高校生300円 (団体200円)
小学生200円 (団体100円)
※団体扱いは20名以上が対象。保護者同伴の小学校就学前の方は無料

石垣の他、抜群の立地条件もここの特徴で、太平洋が一望でき二の郭から見る海と空のコントラストは最高。また、精工に積み上げられた石垣には、ペリーも感嘆したと言われるほどです。

中城城の史跡(見どころ)

入城受付は、中城城の東端の裏門口になります。

馬場~三の郭

見晴らしの良い広々とした馬場から中城城跡の裏門と三の郭の城壁が見られます。

裏門
北東に向かって建てられた裏門で、ペリー探検隊一行がエジプト式と評した精巧なアーチ門がひときわ美しい。
北の郭
護佐丸が井戸を取り込み増築したとされる北の郭。井戸を取り込む事により、長期の籠城にも耐えられるようにしたとされます。
大井戸(ウフガー)
長い階段を下った先にあるのが、北の郭にある大井戸。また、西の郭には「夫婦井戸(ミートゥガー)」と呼ばれる2つの井戸があり、城郭内に水を確保していることが、この城の特徴です。
三の郭

後に増築されたため「新城(ミーグスク)」とも呼ばれ、石積み技法の最も進んだ相方積み(亀甲乱積み)によって築かれています。

二の郭
二の郭の曲線の美しさはひと際美しく、中城城最高の絶景ポイントとなっているようです。
一の郭
中城城で最も広い一の郭で、正殿があったようです。後に間切番所が建てられ、廃藩置県後は中城村役場に使用されていましたが、太平洋戦争で焼失しました。
石垣には観月台と呼ばれる展望台があり、中城湾が見渡せます。城壁の石垣は曲線を描き、芸術的な積み方となっています。
南の郭

首里遙拝所がある施設で木々が茂っています。
他にも神の島・久高島を拝む久高遙拝所など場内には8つの拝所があります。

正門

南西に向けられて建てられた正門(やぐら門)で、見学コースの一番最後にあります。門を挟むように両側に石垣がせり出し、正門の近くには城壁の一部を取り除いた部分があります。

中城城の魅力

県内に300余りあるといわれている沖縄のグスクの中で、最も多くの遺構がオリジナルのまま残されているのが一番の魅力。また、ペリーが絶賛したという美しい石積みのアーチ門など、景色も含めたすべてが訪れる人を魅了していることがわかります。