上ノ国の中世の館
上ノ国町にある、夷王山と呼ばれる150メートルほどの小高い丘に「勝山館」という山城が築城されていました。これは松前藩の祖である武田信広という人物が1470年代に築いたものです。
武田信広は、1452年若狭(福井県)から陸奥田名部(青森県)に移住し、さらに蝦夷地(北海道)松前にわたり、上ノ国花沢館主蠣崎季繁のもとに身を寄せました。1457年コシャマインの戦いの鎮圧に成功、蠣崎家の婿養子となり家督を継ぎ、実質的な和人勢力の支配者たる地位を築き、松前藩の基礎を固めたといわれています。
1470年代北海道は蝦夷ヶ島などと呼ばれていました。この頃からすでに函館から上ノ国にかけての一帯には和人が入っていました。
30年以上前から町民参加による発掘調査が行われ、井戸や鉄の加工場跡、陶磁器など数多くの出土遺物のほか、当時アイヌの人々が使っていた500点余りの骨角器などが発見されています。また、和人墓と隣接したアイヌ墓が混在してみつかっています。こうしたことから和人とアイヌ民族は一緒に暮らしていたことが確定的になっています。
現在、館の内部では柵・空壕・橋などの立体復元、建物・井戸跡などの平面表示が進められています。また、史跡指定地内に建てられた「勝山館跡ガイダンス施設」では、出土品や復元された館の模型及び墓のレプリカを見学することができ、勝山館の各ポイントには説明板が設置され、勝山館の構造や人々の暮らしぶりを確かめながら散策できるようになっています。
上之国館(かみのくにだて)
【勝山館】
勝山館は、武田信広が1470年ごろに築いた山城で16世紀末頃まで、武田氏・蠣崎氏の軍事・政治・北方交易の拠点とされています。
【花沢館】
花沢館は、15世紀中ごろに本州から渡った人々が北海道進出の拠点として築いた道南12館のひとつとされ、1457年コシャマインの戦いの際には北斗市の茂別館とともに陥落しなかったとされています。この花沢館に蛎崎季繁が篭もり戦ったという記録も残っています。
【洲崎館】
州崎館は、コシャマインの戦いで功をあげた武田信広が1457年に築いた館とされています。武田氏・蠣崎氏がその後、道南で勢力拡大の礎となった重要な場所であったようです。
コメント